暇人・爺っつぁんの茶飲み話

映画・KAMATAKI、日本で初めての劇場公開

来る2月23日(土)より、映画・KAMATAKIが、東京新宿、バルト9に於きまして、日本で初めて劇場公開されることとなりました。およそ1ヶ月間、バルト9での単館上映後、全国で順次公開される予定です。

「日本の伝統工芸最高峰の美しさを映像化〜信楽の壮大な自然を舞台に陶芸家の魂、情熱があふれだす」(バルト9より)

この映画については、過去のこのブログをご覧いただいても分かるとおり、監督のこの映画に対する情熱は、並々ならぬものがありました。その甲斐あって、第29回モントリオール世界映画祭では、史上初の5冠を達成しました。
1)最優秀監督賞。
2)国際批評家連盟賞。
3)観客大賞
4)エキュメニック賞。
5)エアカナダ賞。
また、第56回ベルリン国際映画祭のキンダー部門において審査員特別賞を受賞しています。

その主な舞台となったのが、爺っつぁんの窯場、スタジオ、展示室等々である。そしてもちろん、窯焚きの場面も。
この映画で使われている作品は全て爺っつぁんの作品だ。ただこの左の写真で、琢磨こと藤竜也氏の使っている藤取手付土瓶(窯変)だけは、爺っつぁんの娘婿、清岡幸道の作品だ。この場面は、何かを学ぼうとする者は、心を空にしなければ何も学べない、と言うことを、琢磨が外国から来た陶工に諭している。

このタイトルのように、自暴自棄と生きる価値を見失っていたカナダの青年KENが、窯焚きを通じて、生気を取り戻し自分を取り戻していく。その意味でも、窯焚きの場面が、この映画の真価を発揮する場面でもある。だから、監督、クロード・ガにオン氏は、撮影の2年前より、爺っつぁんのもとに通い、3度の窯焚きの体験をしている。その体験がなければ、この映画は出来なかった、と言っても過言ではない。だから、プロの陶芸家が見ても、長期間(10日)の穴窯焼成法の参考になるものと信じている。

この映画が完成したのは、2005年で、すでにカナダ、アメリカにおいては一般公開されています。しかし日本においては3年の月日を要しました。そのわけを週刊新潮1月31日号で業界関係者の言葉として次のように述べています。
「公開作品は年々増え、昨年は洋画、邦画ともそれぞれ400本以上。スクリーンは全国に3000しかありませんから、大作でない限りスクリーン確保も難しい。特に芸術性の高い作品は厳しい」、と。
この映画・KAMATAKI(窯焚)で表現されている、日本の伝統工芸の素晴らしさと、日本人が本来持っている文化や思想を、見出していただければ幸せです。

なお、ここに掲載した写真は、KAMATAKIのスチールカメラマン、阿頼耶文空さんの写真を拝借しました。

2008年02月20日(水)  No.207 (映画::KAMATAKI(窯焚))

全く違う風景を求めて(2) ← 白内障手術

昨年末の白内障の手術前、爺っつぁんの右眼は視力ゼロだった。右眼の前10センチほどの所にかざされた看護師の指の数が判断できなかった。ただ、指の向こうに光をあて、その指を左右、上下に動かすと、その指がどちらに動いているのかが判断できる程度だった。だから、爺っつぁんの右の眼は全く見えていないに等しかった。
そして、左の眼は、この写真のように、見るもの全てが少し黄色味がかって見え、その焦点はぼけていた(これが分かったのは手術後だが‥‥)。だから、近くの物を見るにも、4倍ほどのルーペを使って左の眼で見れば、何とか判読できる、言うのが爺っつぁんの手術前の眼の状態だった。
森井眼科医院の森井勇介院長が、爺っつぁんの右眼を診察して、
「白内障が相当進んでいますね。でも手術をすれば見えるようになりますから。手術についてはご心配は要りません。普通の白内障ですと、目薬で麻酔をして、手術時間も10分程度で、痛みもありませんから、ご安心ください」、と、手術に対する爺っつぁんの不安を無くすように言ってもらえた。
そして、2007年12月26日の森井眼科医院での2007年の最終の手術が始まった。手術時間は20分弱(後にDVDを見て分かった)、その間の痛みは全くなかった。手術終了後、
「手術時間は長くなりましたが、手術は問題なく終了しましたから」、と院長の言葉に安堵した。
手術の日は眼帯をして帰宅。痛み止めの飲み薬を貰って帰ったが、翌日の診察まで必要なかった。聞いていたように、痛みも全くなかった。
翌朝、眼帯はしているものの、眼帯の下に少し隙間があるのに気付いた。その隙間に指を近づけると指がはっきり見えた。これだけでも感激だった。昨日までは全く見えていなかったのだから。
そして、診察のために大津市の森井眼科医院まで家内の運転で出かけた。診察の順番が来て、眼帯が外された。
見るもの見るものの色や形、明るさも今までとは全く異なった世界がそこにはあった。そしてDVDを見ながら、手術の様子を説明してくれた。そして、院長によって画面が止められた。
「この白眼と黒眼の間に幅2.7mmの創をいれ、ここから白内障部位の吸引をし、折り畳んだ眼内レンズの挿入を行います。」
そして再び画面を停止し、
「ここで少しですが後嚢破損がありました。白内障が進んでいて、水晶体を破砕するのに少し時間が掛かりましたが、眼内レンズを入れるのには支障はありませんでした。今年の後嚢破損は1件だけと思っていましたが、今年最終の手術でそれが起こりました。」と。
この後も数度画面を停止し、折り畳まれた眼内レンズの挿入やそのレンズを正常な状態広げる場面の説明があった。そして、術後一日後の経過は良好、との診断だった。
帰り道、助手席に乗り、琵琶湖や瀬田川に群れを成している鴨や、カイツブリを見て、鳥はこんなに綺麗だったのか、と感心したりした。同時に、もし、もう片方の左眼が正常になれば、どれほど綺麗な世界が眼前に展開するのか、楽しみにさえなってきた。

手術前の左眼の見え方は、上の写真のように対象物はぼやけて見え、その上に黄色のフィルタを通して見ているようだった。このことは、手術後にそのように思えてきたことだ。既に右眼は手術をして、見る景色が明瞭になり、色彩もシャープさも、長らく体験できなかったものを感じている。
2008年1月7日(月曜日)、森井眼科医院で、左眼の手術を受けた。左眼の白内障は右眼ほど悪くなっていなかったので、手術時間も10分弱で終わった。
翌日、眼帯を外し、ゴーグルのようなメガネをかけ、その週の12日(土曜日)、眼を守るためのゴーグルは必要なくなった。その日から通常の生活を送ることが出来るようになった。髪を洗うことも出来るし、自転車に乗ることも許可された。しかしまだ近眼用のレンズの処方は先になっている。だから、以前使っていたメガネを掛けてみた所、左眼は合っているようだが右眼は合っていない。それでも見ている世界は全く新しい世界だ。自転車に乗ることの許可も出たが、寒さが厳しいので、どうしても眼を守る意識が働き、未だに乗っていない。術後一ヶ月すれば激しい運動も出来る、というので今しばらく待つことにする。
この手術の折、森井医師が、右眼の焦点は手前から25センチ程の所に、左眼の焦点は、手前から35−6センチの所に合わせてくれたので、近くを見る時には、裸眼で健常者が本を読むように、ある程度の幅があって、いちいち本との距離を変える必要がない。だから、白内障に罹る前のように本でも新聞でも読めるようになった。これも森井勇介院長の配慮からだ。そして景色を見るとき、今使っている眼鏡は左眼だけしか合っていないが、この左の写真のように、はっきりと見える。
爺っつぁんのように還暦も既に過ぎた方で、ものが見え難くなっている方は、一度白内障の検査を受けられれば、と思う。
いずれにしても爺っつぁんは恵まれている。なぜなら、爺っつぁんにはホメオパシーのドイツの医師と共に、内科と外科の権威、奈良にお住いの鯨岡医師、兵庫県丹波市山南町の河原歯科医院、それに、滋賀県大津市浜大津にある森井眼科医院と知己を得たのだから。
2008年01月24日(木)  No.199 (医者嫌いが病に)

全く違う風景を求めて(1) ← 白内障手術

壊疽が完治して2ヵ月後、隣町の知り合いの眼科医が訪ねてきて、
「これだけの病に罹ったのだから、一度眼の検査をしては如何ですか?」、と検診に来るように薦められた。その医師はホメオパシーのことも熟知しているので、検査を受けることになった。2年前の2006年7月のことだ。
診察の結果、左右両眼は糖尿病性白内障だが、右眼の白内障は相当進んでいて、散瞳薬(瞳を大きく広げる薬)を何度も点眼したが、眼の奥を目視することは出来なかった。しかし、両眼とも、思っていたほどの眼底出血がなかった、とのことで、医師も驚いておられた。その医師は爺っぁんが壊疽を罹っているのを知っていたので、相当の眼底出血を予想していたようだ。そして、
「血糖値の管理を徹底し、できるだけ早く白内障の手術を受けられることをお薦めします。」と。
ホメオパシーとこの手術のことに関しては、長くなるので、またの機会に譲りたい。ただ、この手術の10日ほど前から手術後5日間は、ホメオパシーの管理下にあったことだけは伝えておきたい。

12月7日、E.W氏から自転車に乗ることを禁止され、以来、白内障の手術のための準備を始めた。そこで先ず、どこの病院で手術をしてもらうかを決めねばならない。その条件として、
1)近くで且つ日帰り手術が出来ること。
2)信頼できる医師であること。
3)診察の経過を詳しく説明してくれること。
4)手術後の予想結果も知らせてくれること。
5)手術に関しての丁寧な説明があること。
大きな総合病院での手術を薦めてくれる人もあったが、総合病院は入院を義務付けられているために、1)に反していて、除外した。
そして、人の噂やインターネットを通じて情報を収集。候補にあがったのは、大津市浜大津の近くにある「森井眼科医院」だ。森井眼科医院のホームページや院長のブログから、白内障手術に対する院長の自信を感じた。幸いにも森井眼科医院のホームページの開設は、爺っぁんがインターネットで病院を探し始めた少し前のことだった。もしE.W氏からの自転車禁止令が早ければ、森井眼科医院との縁がなかったかもしれないのだ。
そこで、12月15日、森井眼科医院で診察を受けることにした。
いつの場合でもそうだが、最初に顔を合わす人、病院の場合には受付の人の印象が、その病院のイメージを患者に伝える。その点、森井眼科医院の受付の印象は非常に良かった。予約を入れていたので、暫くして中待合に案内された。直ぐに検眼があり、数機の機械を覗くようにして、眼の検査が行われた。機械を覗く前に、看護師から、これから行う検査の説明があった。だから、爺っつぁんには、今度は眼圧を計測するのか、とか、眼の深度の計測するのかとか、‥‥、納得して、諸検査をしてもらうことができた。また血液検査や、血圧の検査も行われた。
そして、白内障の診察なので、看護師から散瞳薬の点眼を受けた。点眼前に、散瞳薬の説明があり、数回の点眼が伝えられた。ここまでの看護師の応対や何気ない動きを見るだけで、院長・森井勇介先生の指導ぶりがうかがえ、院長に対する信頼感は増幅されていった。
そして、院長のいる診察室に案内された。
人当たりの柔らかい、感じのいい先生だ。右眼の白内障は相当進んでいて、視力はゼロだったが、「見えるようになります」、ときっぱりと言われた。その言葉に安心したのは当然だ。そして手術前の注意点、手術当日のこと等、詳しく説明してくれた。そして爺っぁんが遠方なので、「もし通院が大変でしたら、入院することも出来ますから‥‥。」、とも‥‥。爺っつぁんは日帰りを希望した。
そして、手術時、挿入する眼内レンズの焦点をどの辺りに合わせるか、を聞かれたので、今までと同じように、遠くを見るときには近視用メガネを掛け、手元30センチほどの所は裸眼で見えるようにお願いした。
最後に、手術日が決められた。右眼は、2007年最後の手術日、12月26日に、左眼は2008年最初の手術日、正月7日に‥‥。
全ての診察が済んだ時、「もしご希望なら、手術中のDVDをお作りしますが」と。これまでに既に森井院長を信頼していたが、この一言で、全幅の信頼を置くことが出来た。そしてDVDを所望した。

手術日の3日前から、眼の中のバイ菌の量を少しでも減らすために、抗生物質の点眼をはじめた。手術をするほうの目に、1日3回、必ず点眼するように、との指導を受け、爺っつぁんは、23日の朝から点眼を開始した。
そして手術当日は、手術の1時間半前に病院へ行き、点眼や体温の測定、血圧が計測された。その都度、何のための点眼かを説明してくれるのは、患者としては、安心に繋がる。そして、院長の診察があり、「痛みもないので安心するように」、と、一抹の不安をふくしょくしてくれた。
診察後、入院室に通され、手術着を着、安静にしていると、看護師が来て、右眼でしたよね?と、赤いバンドを左手首に巻いてくれた。誤りをなくすための処置だ。そして、点眼をしたり血圧を測定したりしてくれる。11時になり、爺っつぁんの手術の番が回ってきた。手術帽をかぶり、手術室の前の待合で、またまた点眼が。そして手術室の扉が開いた。
手術台の上に横になり、麻酔用の点眼を受け、その後、洗眼します、と水のようなもので眼を洗われる。「しみますか?」との院長の声。しみないのを確認して、顔にシーツが被せられた。手術をする右眼の箇所だけが丸く開いているようだった。
「これから器具を使って右眼を開きますので。」
「それでは手術を開始します。もし痛かったり違和感があればお教えください。」
「‥‥‥。」
「これから少し圧迫感を感じるかもしれませんが、ご安心ください。」
爺っつぁんにとっては直ぐに済んだように思っていたが、手術室から出る際に、「少し白内障が硬かったので、いつもより倍ほどの時間が掛かりました。でも綺麗に手術できましたので、ご安心ください。」
入院室に戻ると、先に手術を済ませた方は誰もいなかった。
看護師が入ってきて、術後の注意を事細かに説明され、血圧を測定して、体調が元に戻ったことを確認後、帰宅の許可が出た。
家内に聞くと、手術時間は20分ほど掛かったのではないか?と言うことだった。
この日の会計は翌日にしてくれているのも、手術直後、待合にいる時間を少なくするためだ、と嬉しい配慮に感謝した。
手術翌日の27日、28日、29日と、通院した。27日には眼帯が外され、ゴーグルのようなメガネを嵌めるように言われた。そして、このメガネは夜も外さず、付けたままで寝るように指導された。手術した眼を触ったりしないように‥‥。
そして、3種類の目薬を、日に3度、点眼するようにとの注意があった。この点眼が大事らしい。もし点眼用の容器が睫毛に触っただけでも、直ぐに新しいのに変えるようにと‥‥。
そして、DVDを見ながら、院長から手術の経過説明があった。爺っつぁんの白内障は難症例に入り、白内障部分の粉砕、吸引に、相当苦労されたらしい。事実、DVDに映っている爺っつぁんの眼は白く、その部分に何本もの皺が刻まれているように見えた。帰宅後、DVDを見て、手術には19分かかったことが分かった。
そして術後の経過は、非常に良い、との言葉に、爺っつぁんは安堵したのは言うまでもない。(ものの見え方は別項に譲る)
病院は29日から翌正月3日まで休診だったが、手術をした人のために、31日に見てもらえた。
「経過は良いので、今日からは普通の生活に戻ってください。メガネも必要ありませんし、入浴、洗髪も結構です。」とのことだった。これで気持ちの良い正月が迎えられそうだ、と、爺っつぁんは思った。
正月7日、もう片方の左目の手術を受けることになっているので、3日前の4日から消毒のための点眼を開始した。同時に右眼には、3種類の点眼液を日に3回点眼する必要があるので、それを継続した。
手術当日、既に一度手術を受けているので、これと言う問題もなく、手術室に向かった。執刀前に、院長から、
「今回は、前回とは違って早く終わりますから」、と、言われた。
その言葉どおり、手術かあっという間に済んだ。少なくともそう感じた。そして、前回の手術時のような、圧迫感もなく、勿論痛みもなかった。
これほど簡単ならば、もっと早く手術を受けていれば‥‥、なんてことを思ったことは確かだ。
手術終了後、入院室で少し休んで、帰宅した。
翌日の診察の際、院長から、
「右眼のレンズと少し焦点距離の異なったレンズを入れましたから。」、と言われた。その時にはまだその意味が分からなかったが、直ぐにその意味が理解できた。
(つづく)
2008年01月18日(金)  No.192 (医者嫌いが病に)

Surly Cross Check 完成

爺っつぁん特注のサーリー クロスチェック( Surly Cross Check )が、9月29日京都自転車処・銀輪にて完成した。
ちょうど、爺っつぁんの親友でありドイツのホメオパシーの医師であるE.W氏が、10月にはインドに行くことになっているので、その日の夕刻、彼と京都で会うことになっていた。
久々に京都まで出向くので、その旨を銀輪主人・雨森氏に伝えていた。E.W氏と話し合っていたところに、雨森氏から完成した、との電話があり、帰途、銀輪に向かうことになった。
銀輪の1階にあるKCTPの奥に注文したサーリー クロスチェックが鎮座していた。そこが銀輪の自転車組立場なのだ。その自転車を見て、爺っつぁんの思っていた通りの自転車だ、と思った。

前にも書いたが、爺っつぁんの自転車遍歴は、最初は2万円そこそこのマウンテンバイクに始まる。その頃はまだそれほど自転車に興味を持っていなかった。しかし毎日、そのマウンテンに乗って走り回っていた。それと共に次第に自転車の雑誌を読んだりして興味が涌いてきた。次に手に入れたのがGiantのOCR3だった。ジャイアンツのOCR3、スペシャライズドのセコイヤ・エリート、Giants OCR2、FELT・F55、Scott・CR−1 TEAM ISSUEとアルミに始まりカーボンの最高峰とも言われるSCOTTにまで至った。
その頃の気持ちは、自転車は軽ければ軽いほど快速で、快適だ、と思い込んでいた。しかし爺っつぁんのように、還暦も既に過ぎた者には何かピッタリと来ない。それで、爺っつぁんの自転車に乗る目的を思い直してみた。

爺っつぁんは、距離の如何にかかわらず、のんびりと、楽しく、また素晴らしい景色や物が目には入れば、写真を撮ったり人と話をしたり‥‥。だから、爺っつぁんには、重量が軽くスピードの出る自転車は必要なかったのだ。
爺っつぁんの父親は米屋を営んでいた。その頃、ホイルベースの長い、がっちりした自転車に米を積み、配達に回っていた。時には自転車の後ろにリヤカーを連結し米を積めるだけ積んでいたのを思い出した。その自転車は、物の運搬、と言う目的に沿っていたのだ。

それで、自分の本当に欲しい自転車を探し始めた。あれこれインターネットで見て回っているうちに、Giant のグレート・ジャーニーとサーリーのロング・ホール・トラッカーが目に付いた。
グレート・ジャーニーのフレームはアルミで、元はマウンテンバイクだったものを、古きよき時代のバイクであるランドナー風に仕上げたものらしい。つまり、荷物を積載して旅をする事が出来ると言う、ランドナーの現代版がこのバイクなのだ。
爺っつぁんは既にアルミ・フレームの自転車には乗っていたので、この時はクロモリを探していた。だから、サーリーに決するのにはそれほど時間が掛からなかった。直ぐに記憶にあった京都銀輪に向かい、ロングホールトラッカーを注文した。これは以前に書いたとおりだ。

サーリー ロング・ホール・トラッカーに乗り始め、クロモリの柔軟さと快適さは、今までに経験したものとは大いに異なった。しかし、ドロップハンドルを付けていたので、運転姿勢に無理を感じることがあった。それで、ハーフドロップハンドル(マスタッシェハンドル、一名中学生ハンドル)に変えてみたところ、爺っつぁんのドライビングにはピッタリとしたものになった。
このロング・ホール・トラッカーには26インチのホイールが付いていて、そのホイールベースは他と比較できないほど長い。つまりそれだけ乗り心地が良い、と言うことだ。ゆったりと、のんびりには、これ以上の自転車はないかもしれない、と思えるほど、爺っつぁんの好みの自転車だと言える。
この良さをそのまま引き継ぎ、かつ、少しは不便と思える箇所を改善した自転車が欲しくなった。それが今回完成したサーリー クロスチェックだ。このフレームにマルチハンドルを取り付けた。別名・フィットネス・ハンドルと言われるように、フィットネス・バイクマシーンやエクササイズ用のものに使われているハンドルだ。爺っつぁんは、マスタッシェ・ハンドル以上の手の位置や角度を得られる、このハンドルに、爺っつぁんの自転車ライフを満ち足りたものにしてくれるように思ったのだ。そして、ロング・ホール・トラッカーで使っていたWレバーをや止め、デュアルコントロール・レバーを取り付けることにした。ホイールは700cなので、軽快感も生まれた。これで、ロング・ホール・トラッカーで感じていた不都合な部分はなくなった、と言える。

詳細データーは最後にするが、サドルにはブルックスのハニーカラーを、バーテープはそれに合わせて、銀輪特製の同色の皮テープを付けてもらった。手元に菱川氏作の皮のサドルバッグがあったので、フロントに取り付け、爺っつぁん好みの自転車に仕上げてもらった。銀輪の雨森氏にお礼を言いたい。また今回、銀輪特製の皮製ハニーカラーの大型サドルバッグをお願いしている。これが出来上がれば、爺っつぁん特製のサーリー・クロス・チェックが完成することになる。詳細データーに入っていないものには、PolarのCS200CAD/CS200と、サイドスタンド、バックミラー等が付いている。

それではここに詳細データを紹介したい。
フレーム; surly クロスチェック 山霧灰 サイズ50
フォーク; surly クロスチェック
ヘッド ; テクノグライド クラシック OS Sil
Fハブ  ; HB-M970 32H(非ディスク用 ハブ)
Rハブ  ; FH-M970 32H
リム  ; Mavic A319 32H 銀
スポーク; DT コンペティション 2.0/1.8 アルミニップル 銀
タイヤ ; パセラ アメクロ  700x28c
チューブ; パナレーサー R-AIR 700x28c  
ブレーキ; BR-M970
シフター; ST-M970 デュアルコントロールレバー
Fメカ  ; FD-M970 28.6
Rメカ  ; RD-M970 ロングケージ/SGS
クランク; FC-M970 44-32-24 167.5
カセット; CS-M970 11−32
ハンドル; BBB マルチバー 幅570 銀
ステム ; 日東 ハイパー2 10mm 日東 ステンシム
グリップ; 銀輪 革バーテ ハニーカラー バーGEL
スペーサ; 銀 5cm程
サドル ; B-17ハニーカラー 銅色レール
ポスト ; 日東 S83 φ27.2
ペダル ; PD-M324 シルバー 片面SPD 片面ノーマル
チェーン; CN-7701
2007年10月02日(火)  No.145 (趣味::自転車ツーリング)

サーリー クロスチェック

8月中旬にDVD,炎の声 神崎紫峰ドキュメンタリーの完成を知らせるHpを、爺っつぁんの英文サイトに掲載した。
掲載直後から、問い合わせや購買依頼が殆ど毎日届き、その対応に追われていた。そして8月の下旬、ドイツから、「私の友人がDVDを買ったが、神崎紫峰の作品を愛好している私に連絡がなかった。このような良いニュースは、メールで知らせてほしい。」との連絡があった。
そこで8月末、急遽メルマガの準備をし、1日200名に限定して、3日間メルマガを送付した。外国向けにはまだ600名にしかメールを送っていない。なのに、その直後から、問い合わせが増え、その対応に追われることになった。
母国語でも大変なのに一日中英語漬けで、混乱状況は極限。

そこで、9月7日、気分転換をかねて京都銀輪へ行った。銀輪主人・雨森氏はクロスチェックの組み立て中だった。
実は爺っつぁんには次の自転車への思いがあった。Surly Cross Check (サーリー クロスチェック)の、爺っつぁん特別仕様車を注文しているのだ。注文してまだ数日しか経っていない。
この写真は銀輪のホームページから借りた。事後承諾をお願い!!

爺っつぁんは、今までに8台の自転車に乗り継いできた。アルミフレームに始まり、カーボンに興味が移り、そして一昨年、Scott の CR-1 Team Issue を手に入れた。そのフレームを最高の部品で組み上げた。重量も7キロそこそこ。機種としては現代の最高峰にある。なのに、何故かしっくり来ない。

昨年、銀輪でロングホール トラッカーを譲ってもらった。スコットに比べると、重く、軽快感とは程遠い。

爺っつぁんは、これに自転車の原点を見た気がする。

つまり、Scott は、爺っつぁんにとってはF1カーに相当するものだった。爺っつぁんのエンジンは50cc以下なのに、F1を動かしているようなものだ。やはり自分に合ったものでないと、乗っていても楽しくない。だから Scott は、いつも自転車工房(?)に鎮座している状態だった。
埃を被ったままにしておくより、F1を目指す若者に乗ってもらいたい。そのように思っていた所、素晴らしい人を紹介され、その人の下に行った。Scotto にとっても幸せなことだろう。

爺っつぁんが、のんびりと長時間自転車に乗っていると、次第にドロップハンドルが苦痛になってきた。
そこで、ハーフ・ドロップ・ハンドル(マスタッシェハンドル)に替えてみた。問題は解決だ。暫くそのまま乗っていたが、いま少し持ち手が変えられれば、と思うようになった。

また、サーリー・ロングホール・トラッカーにはWレバーをつけている。別にこれで問題はないのだが、上り坂で、ギヤチェンジをしたい時、片手を離すので、少しふらつくことがある。これらの問題を解決すれば、爺っつぁん好みの自転車が出来上がる。それを、京都・銀輪にお願いしているのだ。

その日に納車するクロスチェックを組み立て中の雨森氏と、ゆっくり話が出来た。話をしながら自分のイメージを作り上げていく。そして最終案が決まった。

ポタリング、のんびり走行、と言って
も、やはり軽快感は欲しい。それでフレームはサーリー クロスチェックの山霧グレーに、シルバーで統一された部品を取り付けることにした。そして、爺っつぁんのロング ホール トラッカーのハンドルの問題点を解決するため、マルチハンドルを取り付ける。
Wレバーでの問題点は、デュアルコントロールレバーを取り付けることにした。
最上段の写真のクロスチェックのフレームに、シルバー一色では、何かアクセントが足りないので、サドルとハンドル、カラータイヤでアクセントを付けることにした。つまり、サドルにはブルックス Proシリーズのハニーカラー(ナチュラル)、バーテープも同色の銀輪特製の皮テープ。タイヤは、パセラ アメクロ 700 28c に決定した。

自転車は乗ることも楽しいが、どのような自転車に仕上がるかを考えるのも楽しい。

これが仕上がってくれば、爺っつぁんの自転車は3台になり、全てがクロモリになる。その優しい乗り心地や、爺っつぁんの目的、のんびり楽しくを実感させてくれるのはクロモリだ、と言えるのかもしれない。
完成すれば、ここに写真付きで紹介させていただきます。注文すると一日も早い納車を願うのは爺っつぁんだけなのだろうか?
2007年09月09日(日)  No.135 (趣味::自転車ツーリング)

ドキュメンタリーの完成!の経緯。

クロード・ガニオン監督の作品、映画「KAMATAKI窯焚」及び「DVD、The Fire Artist 神崎紫峰ドキュメンタリー」のプロデューサーのブログ「Yuri's Blog Salon 桔梗庵」に掲載されていたメッセージをここに転載させていただきます。
ここに転載する第一の理由は、5部に分割されているメッセージを、時系列に読む方が、読む人にとっては読みやすいこと、がその理由です。ですから、長文になり、写真もありませんので、興味のある方にお読みいただければ嬉しく思います。

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ドキュメンタリーの完成! 2007年 07月 21日

DVD製作/窯焚き狂詩曲 <その一>
「陶芸家神崎紫峰」のドキュメンタリーがついに出来上がった。

思えばもう随分前になる。2002年の末、次回作の映画のリサーチで滋賀県の信楽へ行き、神崎紫峰先生に出会ったのが始まりだった。長い間撮りたかったテーマ「美と醜」についての物語である、映画「KAMATAKI」の主人公の叔父の職業を陶芸家と設定、陶芸について調べだしたのはその年の夏頃。ありとあらゆる陶芸関係の本を読み、インターネットで検索し、陶芸家のサイトを訪れ、たどり着いたのが信楽焼の神崎氏だった。


脚本家であり監督である相棒は、何かをするとき、知りたいとき、何十冊と本を読む、ビデオを見る、ありとあらゆる方法で、本物を見つける。決して安易な方法で物事を判断したり、始めたりはしない。日本へ来る前は、益子、常滑、備前、有田、唐津、沖縄迄日本全国、足を伸ばしてリサーチをするつもりだった。前回の作品で沖縄がロケだったこともあり、随分気にいっていた相棒は、沖縄の壺屋焼きをかなり全面に検討していたが、私の母が滋賀県在住でもあり、また日本での思い出の場所、我々が知り合い、10年間住んでいた京都時代、近いのに行く機会がなかった信楽から始めることにした。
あらかじめメールを送っておいた神崎氏に電話、快く迎えて下さる事になり、国道沿いに延々と狸の並ぶ信楽の町へと一路車を走らせた。神崎氏と相棒は初めての出会いで意気投合した様子で、話しはつきず、12月に行う窯焚きに参加してはどうかとのお誘いを受ける。これと思ったら一直線の彼は即座に決定。私もすぐに乗ってしまう質なので、信楽駅前に宿舎も見つけ、車を調達(母の車を強制強奪)、彼の毎日の窯場通いが始まった。

2002年12月真冬の窯焚きが始まる。神崎氏の窯焚きは10日間、24時間態勢で赤松を焚く。相棒もワンシフトをまかされ、5?6時間薪を焼べ続ける。今から思えば飛び入りの新米に、よくぞ窯焚きを任せてもらえたものだと思う。真冬の信楽は寒い。滋賀県で一番気温が低いと聞く。そんな中、6時間のシフトが終わっても、他の人の窯焚きを見続けて、彼流の徹底したリサーチが始まる。窯に向かっている方の体は暖かいが、反対側は氷の様に冷たくなるようで、魚を焼く様にクルクル回り続けなければたまったものではないらしい。
10日間の不眠不休の窯焚きが終わり、年末を挟んで翌年5日に窯開けになる。この日に私もカナダから再び訪れ、すばらしい作品が出来上がっているのをこの目で見る事が出来た。
この窯焚きから、すこしずつビデオカメラで記録を始める。ソニーのミニDVカメラは1300度に上がる高温に、プラスティックの部分が溶けてしまった.。


2007年 07月 22日
DVD製作/窯焚き狂詩曲 そのニ

2003年に入り、長編劇映画「KAMATAKI』の準備に入る。
12月の窯焚き後一旦カナダに帰り、本格的にシナリオの執筆にかかる。窯焚きの実体験をもとに、出来上がったのが確か2月11日、私の誕生日だった。映画『ミザリー』を真似してドンペリで乾杯がシナリオ完了のセレモニーだ。まだまだこれから改稿が重なるが、いつもこの初稿に言いたい事の魂は詰まっている。それをああだこうだと言いすぎるとかえって芯を失い、ふやけたものになる。しかし、映画はシナリオが完成しなければ資金は集まらないし、キャストも決まらない。(キャストが決まらなければ資金も集まらない)監督の名前だけで資金が集まった時代は終わった。年々ハリウッド型エンターテイメントが主流になってきている中、地味な作品は出来てみなければ分らないと言われる、でも資金がなければ作れない。この辺が、ジレンマのおびただしい時期だろう。

相棒は処女作「KEIKO」で新人を起用、即興の演技で日本の映画界に新風を吹かせた人。日本映画監督協会から新人賞をもらう等、期待の映画人としてのスタートを切った。この映画でも原点に返り、なるべく自然な演技で、人間の生態を切り取った映像を映し出したい、と考えている。すなわち、脚本にすべてを書き込まない。脚本はただの道しるべ、中身は俳優との共同作業で埋めて行く。脚本が固まっていないのは、プロデューサーにとって一番困る状態である。それでもいろいろなところへ話しを持ちかけ、断られ、うまく行きかけては、頓挫し、そして裏切られ、、と月日はあっと言う間に過ぎて行く。春から本格的に信楽に居を構え、準備に忙しい毎日だったが、夏になって主人公の叔父役に藤達也さんが興味を示してくれたところで、結局撮影は翌年になることになり、撮影のために予定してもらっていた窯焚きが中に浮く事になった。しかし、神崎氏の好意でそのまま窯焚きは決行となり、窯に火が入る。藤さんも練習のために窯焚きを見学に来るなど、決して無駄にはならず、逆にきちっとした準備が出来る事になった。その前後にも広島の生口島へ行ったり、丹波へ「ぐいのみ会」に参加撮影したり、岐阜の松山先生、長野、群馬高崎市、、、とドキュメンタリーの撮影は続く。窯焚きには丁度カナダ・ニューブランズウィックから、陶芸家リー・クラークが見習い助手として参加することになり、彼の日常もカメラは追った。この部分もこの後作品として完成させる予定である。冬の間一旦カナダへ帰った我々は撮り終えたテープのロッギングを開始。この時でもう既に100時間以上のテープがあったろうか?

ドキュメンタリーの撮影はカメラがあればなんとか出来るようなものの、監督とカメラマンでの念入りな撮影、そして編集へと移行する作業は早いようで手間がかかる。そして、劇映画と違って脚本があるわけではなく、撮り終わった材料からドラマを作って行く、編集人の才能がものを言うのである。オフィスに据えたマックのG5でファイナルカットプロを駆使しての作業が始まった。しかしその間も、USへの撮影が数回、カナダNBへの撮影、、、2004年になり本格的に動き始めた「KAMATAKI」撮影で一旦中断、2005年に映画完成迄は殆どストップ状態。監督も、編集も同じ人間がしているので一度に二つの編集は出来ない。ドキュメンタリーの編集が気になりながらも、やっと撮る事が出来た映画「KAMATAKI」の完成を優先することになる。


DVD製作/窯焚き狂詩曲 その三

映画「KAMATAKI』とドキュメンタリー
映画の事はまた機会を見て記録を残したい。この作品に関してはプロデューサーとして、まだ傷が癒えていないとも言える。唯一言えるのは、これほど大変な製作は初めてだった事。今迄、多数映画を製作し、難しいフランスとの合作も経験し、連邦政府や州政府との交渉、何億と言う資金繰りから製作体制迄、プロとしてのステップを十分知り尽くしていたはずが、今回は勝手が違った。

今回はかなり多くの人に迷惑をかけた製作だった。クランクアップから2年を過ぎた今もまだ未解決だし、特に神崎氏には甘えっぱなしの撮影だった。しかし同時に、多くの素晴らしい出会いがあり、そしてその人達に支えられての撮影でもあった。資金不足に目をつぶり見切り発車したことを後悔するべきか、それとも発車した決断を英断とするべきか、、、。とにかくあの時に無謀な決断をしていなければ、この作品は出来上がっていなかったのは確かだし、ドキュメンタリーも完成したかどうか分らない。スタートがどうであっても、結果作品が残るのとないのとでは全く意味が違ってくる。普段はプロダクションの会計係だけで3?4人が働き、助監督にも少なくとも2人のアシスタントがつく、資金も十分に見積もり通りに集めてのクランクインとなる。プロデューサはそれ迄が仕事で、クランクイン後はロケ地を何回か訪れ、デイリーラッシュ(毎日撮影した分の試写)を見て意見を言うだけ。プロダクションマネージャーが現場をコントロールし、弁当係からドライバー迄がプロ中のプロ、何の心配もない。今回、資金不足を理解してもらっていたとは言え、映画製作が初めてのスタッフも多く、必要以上のストレスを与え大変だったと思う。

9月から11月にかけて撮影し、クランクアップしたあと、キャストもスタッフも皆それぞれ帰って行って、空っぽになった宿舎に残った山のようなゴミを監督と二人で信楽の山深いゴミ処理場へ持って行き、雨の降る中、瓶の色によって違う場所に投げ入れる作業を黙々とした。というか色分けしなければ管理人に叱られた。しかし、なぜか楽しかった。映画作りの原点にかえったようで、雨の中、二人でひたすら瓶を投げていた。


DVD製作/窯焚き狂詩曲 その四

2004年11月、映画のクランクアップのあとカナダへ引き上げる。エネルギーは使い果たし、資金も底をつき、借金だけが残った状態で、一体これからどうなるのか不安の毎日だった。ひたすら映画の仕上げに全力を注ぎ、8月のモントリオール映画祭にオフィシャルコンペティション参加が決まる。

無理を言って来てもらった藤さんの存在感も功を発して、最優秀監督賞、国際批評家賞、大衆賞など、、、5部門での受賞となる。「KAMATAKI」プレミア上映の日、土砂降りだった雨が、会場へ向かうその時にピッタリと止み、会場の向こう、夕日が輝いて見えだした。藤さんの『窯の神様が応援してくれましたね、、。』との言葉が印象深かった。映画際での成功はどんどん他の映画際へ広がり、決して収入にはつながらないが、名誉だけはどんどんついて来る。世界中から参加のオファーがあり、嬉しい悲鳴。

ベルリン、アルジェンチン、フランス、バンコック、、、、と今年1月のカリフォルニアまで、1年半の映画祭巡業が始まった。余談だがベルリンで日本料理店「大都会」に入ったら、巨大な狸が迎えてくれた。とても良い予感がした。その日は私の誕生日でもあり、2003年の私の誕生日に脚本が仕上がってから3年、作品を持って世界三大映画祭に参加出来るなんてて夢のようだ。その上審査員特別賞までもらった。感謝。

しかしその間、ドキュメンタリーの編集は始まったり、止まったり、また撮影も続き、テープはどんどん増えるばかり。最終的にもう一度06年に信楽の陶房で作品の撮影をして合計200時間以上のマテリアル、出会いから4年半の歳月を要してやっと編集も終わりを迎えた。
編集が終わったら完成?いや、まだまだ大変な作業が残っている。まづ、オフラインで編集していたものをオンラインで編集、イメージに合わせサウンドの編集、特にドキュメンタリーの場合、ノイズが一杯入っているのでそれを取るだけでも大変な作業である。また、不足している音も入れ込んだり、音の高低をバランスよくしたり、また音楽を入れて、その調整もある。最終的にミックスをする。微妙な違いでそのシーンのムードが違って来る事で、ファイナルミックスの試写では沢山のクレームを出し、調整してもらう。スタジオの担当者は、劇場映画並みのミックス作業だと驚いていた。我々のポリシーはドキュメンタリーだから、短編だからと手を抜かない。一つ一つが魂の通った作品になるよう、10年20年後に見ても納得いくものを作ることだ。映像の方はオンライン編集後、カラーバランスをする。蛍光灯の下で撮ったものと、屋外で撮ったものの色の差は大きい。それが気にならない程度に調整してもらう。それでも、青過ぎたり、赤過ぎたり、試写の日には何カ所かの訂正が入る。タイトルを入れ、エンディングクレジットロールを入れ、この辺でいわゆるポストプロ、仕上げの作業は一ヶ月を費やして終わり、一応商品としてのマスターテープが出来る。さて、これからが今回の我々の狂詩曲が始まる。DVD マスターの作業である。


神崎紫峰ドキュメンタリーフルム <その五>

マスターテープが上がり、これからDVDの製作が始まる。

世界に向けて広めようと、日本語、英語、フランス語の字幕を付けようと考える。その上、難聴者向けに総字幕版も作る事にする。すなわち、日本語版には、部分的に英語の台詞に日本語字幕がついたものと、日本語にも字幕がついたものがあることになる。フランス語は全編字幕だから、日英仏で、5種類の字幕版が必要になる。その上にボーナスとして、映画「KAMATAKI」の予告編、神崎氏の紹介、監督の紹介と御知らせ(この後に完成させるーKanzaki Wayーと言うハウツーものについて)、をつける。これらもすべて3カ国語。特に字幕の修正は大変だった。人に直訳させると、時には全く意味が通じないときがあり、陶芸の専門用語もあり、それをフランス語ではどういうのか、、、など、点検するたびにミスが見つかり、この作業だけで数週間があっという間に過ぎて行った。そして、DVDを作るにはメニュー作りが心臓部分だ。メイン頁から、各ページに飛ぶ、そのデザインレイアウト、をするのはマックのDVDスタジオプロを駆使するTKO嬢。ものすごい集中力が必要なので、彼女の目と肩は数週間、固まっていた。メニューが出来ると同時に今度はオーサリングと言う作業がある。出来上がった各ページをつなげて行く作業だ、。DVDのリモコンで、いろんな頁に飛んだり、戻ったり、ストップしたり、また再生したり、、、など、間違いのないようにプログラミングする作業だ。これらの作業を甘く見ていた。どんなに急いでもフィジカルにかかる時間は短縮できない。TKO嬢は数週間、週末なし、殆ど24時間態勢での作業になった。ポストプロの時間のずれもあり、我々の作業も遅れ気味、神崎氏の窯祭りに間にあわせようとすると、だんだんリミットが近づいてくる。

マスターDVDを作った後はどうなるかと言うと、FEDEXで日本に送りプレス専門会社にプレス、ジャケット印刷、シュリンク包装と一環しての作業をオーダーする。この会社を選ぶだけでまた2週間が必要だった。始めはDLTと言う磁気テープを納品する必要ありという事で、こちらのラボで問い合わせると、DLTはこの数年使っていない、どちらかと言うとデーターをFTPサーバー経由で送るのが普通になっているらしい。それに特にマックで作業していると何かと日本との仕事はハンディーになる。日本は機械がウインドウズよりなのだ。危うく、DVDのプレスは日本では無理かと思われた時、大阪の会社を見つけなんとか滑り込みセーフでオーダーする事が出来た。どの日本の会社も韓国、シンガポール等に下請けに出すらしい。品質管理は?、、と心配したところ、この会社はシンガポールの工場を子会社として、自社責任で品質管理をしているらしい。社長のポリシーもホームページで読み、気に入った。17日にフェデックスで発送した後、フタッフ全員ボーッとしてふぬけの様になった。いまごろはプレス機でどんどんプレスされているのだろうか?みなで乾杯したビールはことのほか美味しかった。

さて、皆さんに長い間待ってもらったドキュメンタリー、気に入ってもらえるだろうか?
未だに完成したとは信じがたい、現物を見る迄は、、、。


昨年のカナダ大使館での試写会後、映画「KAMATAKI」の配給も決まった。今年は忙しいけれど、良い年になりそうです。映画の話題はまたお届けします。
ーおわりー
2007年08月03日(金)  No.134 (映画)

クロード・ガニオンからのメッセージ 2007年 08月 01日

上記タイトルで、「Yuri's Blog Salon 桔梗庵」に掲載された全てのメッセージの転載を許されてますので、ここに掲載させていただきます。コメントも転載しましたが、事後承諾、ということで‥‥。

クロード・ガニオンからのメッセージ 2007年 08月 01日
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神崎紫峰ドキュメンタリー「炎の声」完成を期して、監督ガニオンからのメッセージが届きました。直訳ではありますが、彼の感謝の気持ちと、この作品に対する想いが込められていると思います。

The Fire Artist…

『炎の声』

The Fire Artist is, at long last, completed. It was quite a journey. I often wondered if I would ever see the end of it, if it even made any sense to keep going… But I’m very happy with the result and I hope that you will enjoy the documentary about this “strange man”, Shiho Kanzaki, who became one of my best friends after those many years of shoot.

『炎の声』がようやく完成しました。長い、長い道のりでした。「本当に終わりは来るのだろうか、本当にこのまま突き進んでいいのだろうか」と時折考えたりもしました。しかし今、その成果に私自身、とても満足しております。皆さんが、長年におよぶ撮影を通して私のかけがえのない友となった,「変わった男・神崎紫峰」のドキュメンタリーを楽しんでいただけると幸いです。

There were a lot of happy moments, a few hectic ones and some very sad ones as we lost some dear friends during the course of the shooting… Fortunately, the movie magic will keep them with us for many years to come、. Let’s not forget them… I am very grateful to our lost ones.

この長い道のりの中、楽しいときもあれば、大変なとき、また撮影の最中、愛する友を失う悲しい出来事もありました。しかし幸いなことに、映像の魔法はいつでも彼らを身近に感じさせてくれるでしょう。彼らの存在を胸に留めておきましょう。亡くなった方々へ、心からご冥福をお祈りいたします。

I also have to thank so many people who made all this possible for me. Of course, I begin with Shiho Kanzaki who was there for me anytime I needed him, never refusing anything, open to any suggestion or request. His generosity goes way beyond what can be written here. Kanzaki Sensei and his wonderful wife Keiko were just amazing, in every respect and I hope to keep them as my friends to the end of my days…

それから、このドキュメンタリーの完成を可能にしてくれた、多くの人々に感謝を捧げたいと思います。まず、いつでも、私が必要としたときに必ずそこに存在し、私の提案や要求を拒む事無く、力になってくれた神崎紫峰氏。彼の寛大さは、到底ここに書き表せるものではありません。神崎氏と奥様の卿子さん、この二人の素晴らしさにはただ驚くばかりです。これからも、末永い親交を願っています。

I have to thank all of you, who gracefully accepted to appear in the movie. I will not mention everyone by names, but you know that these words are addressed to you. Each of you, in your own personal way, made all this possible by speaking on camera, by receiving us in your homes, often feeding us, supporting us emotionally and even financially in some cases. Really, this movie could have never been made without all of you who appear in the end credits. Thank you from the bottom of my heart.

そして次に、この映画に協力していただいた全ての人に、感謝します。一人一人の名前には触れませんが、この感謝の言葉をあなた方に差し上げます。あなた方の一人一人が、それぞれの方法で、不可能を可能にしました。カメラの前で話して頂いたり、ご自宅を私達の宿として提供していただいたり、食事を提供していただいたり、精神的な支えになっていただいたり、時には経済的にも支えて頂きました。本当に、この映画は、エンドクレジットに現れるあなた方の、誰が欠けても実現しなかったでしょう。心より感謝申し上げます。

But I couldn’t go without a special mention for Saini San who was extremely helpful in making all this possible for us. He spoke on camera, let us use his personnal collection of work from Shiho Kanzaki and went much further than anyone could imagine in order for us to make this happen. And on top of all this, he makes the best rice crakers in the world!

そして、齋二勇治氏には、この場をかりて特別にお礼を申し上げたいと思います。個人的なコレクションの数々を惜しげも無く我々の撮影のために提供し、インタビューに応じて頂き、また想像を越えるご協力、ご支援を頂き、多大な貢献をしていただきました。そして、素晴らしい事に、世界一の品質を誇る「おかき(高山おかき)」を今もたゆまず作っておられるのです!

This project definitely made me meet a lot of extraordinary people…

このプロジェクトは、私に多くの素晴らしい人たちに巡り会う機会を与えてくれました。

I also want to thank Yano san (who does not appear in the film…) for his very inspiring Shakuhachi albums and his generous collaboration for our film. And please, allow me to give a special thanks to my producers/wife/son, Yuri and Samuel. At times when the finances were extremely low, to say the least, they still allowed me to make my trips everywhere to pursue my dream of making this documentary. They trusted me a hundred percent, even though the revenue possibilities were extremely slim. They struggled really hard in order for me to make this film come true.

画面には登場しませんが、感動的な楽曲と巡り会うきっかけを頂いた矢野司空氏に、彼の傑出した尺八の演奏、そしてこの作品への寛大なご協力に感謝したいと思います。そしてこの場を借りて、私の妻であり、プロデューサーであるユリと、同じくプロデューサーである息子サミュエルに感謝したいと思います。経済的に最悪なとき、このドキュメンタリーの撮影の為に様々な場所で撮影する費用を捻出し、映画を完成させるという私の夢を実現してくれたこと、収入源がこの上なく少なかった時でさえ私を全面的に信頼してくれたことに感謝します。

And I finish with Takako (“You think my slave”… as Uncle Takuma would say in KAMATAKI…) who was with me in this adventure from beginning to the end. She not only shot a good part of the material with me, made several of the interviews, but she was stuck with 200 hours of material. Editing this type of documentary is not like editing a feature film or a TV documentary. She hung in there, not only doing all the physical work, but pushing all my ideas to their limits, improving every suggestion I would make. Trust me, there is a lot of Miyahira Kun in this documentary…

そして始まりから終わりまでこの冒険を共にしたタカコに感謝します。(''私の奴隷だと思うかね?''映画『KAMATAKI』の中で琢磨おじさんがケンにいったように...)
彼女は単にいい映像を共に撮っただけでなく、出演者への質問、200時間にもおよぶ編集作業を乗り越えました。この場合の編集作業は普通の台本のある映画やテレビの編集とはかなり違ったもので、彼女は技術的なサポートのみならず、私の提案に耳を傾けその全てを極限まで押し広げました。このドキュメンタリーの中では宮平君の映像的感性が光を放っています。

I will conclude by saying that when I first met Shiho Kanzaki, I wasn’t too sure of the kind of man I had in front of me. When I decided to make the documentary, I chose not to have a personal opinion. I chose to go out there and watch, and discover. All of you made me discover my subject. At the start, I had absolutely no idea where this would lead me and what kind of man would emerge in the end. Fortunately for all of us, you all made us discover a wonderfully stimulating man, someone worth knowing.

最後に、神崎氏に初めて会ったときのことを記します。初めて会ったとき、私は目の前にいる一人の男がどんな人間なのか、正直、確信がありませんでした。ドキュメンタリーを撮ると決心したとき、私は「個人的な考え」で彼を判断する方法ではなく、この一人の人間と行動を共にし、観察し、発見していく道を選びました。
関わってくれた方々全員が、「彼」を知る手がかりとなりました。初めは、どのような形になるのか、どのような人物像が浮かび上がるのか想像もつきませんでした。幸運にも、我々全員にとって、素晴らしく刺激的なある一人の男、知らずにいるにはもったいない人間-神崎紫峰-を発見したのです。

愛をこめて!
Love everyone!

クロード・ガニオン
Claude

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Commented by hige-t at 2007-08-01 13:56

心の籠もったメッセージですね。
私共のメンバーといつでもまた飲む機会は作りますよ(^_-)-☆
……とお伝え下さい・・!!(^Q^)/^

----------------------------------------------------------------- Commented by 爺っつぁん紫峰 at 2007-08-01 16:49 x

身に余る言葉をいただき、ストレンジ紫峰、身を屈めて小さくなっています。
素晴らしいドキュメンタリー、ありがとうございました。
多くの方が3度、4度と鑑賞し、その都度このドキュメンタリーの素晴らしさを発見しておられるようです。
爺っつぁん紫峰も今日、ゲストと2度見てますので、合計8回見たことになります。
その都度新しい発見があり、クロードさん、ユリさん、サミュエルさん、貴子さんの格闘の跡がしのばれます。感謝!!

きょうの驚きは、爺っつぁん紫峰がロクロで最後の水挽きをしている場面で、ゆっくりとなっていくロクロの呼吸と尺八の呼吸、最後の無音の音と水挽きの余韻が一つになっているのに驚きました。

何につけても、素晴らしいドキュメンタリー、ありがとうございました。

-----------------------------------------------------------------
Commented by 髭 at 2007-08-02 06:34 x

DVDも何度も拝見していますが……今朝はこのメッセージを再度拝読しました(^◇^;)
『知らずにいるにはもったいない人間-神崎紫峰』……実に言い得て妙ですね(^_-)-☆
男を称賛するにこれ以上の言葉はありません。

昨日某氏が電話をしてきて……ドキュメントの中で奥さんを見て涙が出た……って。
敢えて採用されたカットにあらためて感謝し、死者の追悼には余りにも有り難い言葉だと思いました。
(其の男が決して情緒的なことに翻弄されたり、情緒的な言い回しをする男ではなかっただけに尚更でした)。
個人的な報告ですが……関連事件?として(^◇^;)
2007年08月02日(木)  No.126 (映画)

クロード・ガニオン監督からのメッセージ

DVD、The Fire Artist 炎の声 神崎紫峰ドキュメンタリーが完成後、クロード・ガニオン監督からのメッセージが寄せられています。
このメッセージは爺っつぁんのプライベートな英文掲示板に寄せられていたものですが、このDVDの製作者でガニオン監督の奥さんであるユリさんが翻訳して、ユリさんのブログに掲載していただきました。
Yuri's Blog Salon 桔梗庵の2007年8月1日に掲載されています。
爺っつぁんがあれこれ言ううより、直接お読みいただくほうが、その真意が伝わると思いますので、ここに紹介させていただきます。
2007年08月01日(水)  No.125 (映画)

クロード・ガニオン監督最新作、DVD「炎の声」完成

昨日、ZUNOフィルムのプロデューサー・Yuriさんが、クロード・ガニオン監督最新作、DVD「炎の声」神崎紫峰ドキュメンタリーを届けてくださった。すべてが終わった深夜にゆっくり鑑賞! 予想通り、ガニオン監督の編集には凄いものを感じる。どの点かを言うのは差し控えるが、爺っつぁんはご満悦だ。(笑)
この製作過程での苦労談義は、プロデューサーのBlog・Yuri's Blog Salon 桔梗庵の2007年7月21日から7月24日をご覧ください。またコメントなどもお願いします。(スパム防止のためワンクッションを置いてBlogに移動します)
なお、購買ご希望の方はギャラリー向山をクリックしてください。
2007年07月29日(日)  No.122 (映画)

鷲峰山・金胎寺に登頂。

20日朝、7時過ぎ、いつものように自転車でサイクリングに。行き先は国道307号線の裏白峠うを越えて、鷲峰山(ジュウブサン/セン 標高約680m)・金胎寺(コンタイジ)、そこから和束の原山に出て、湯船森林公園経由、信楽へ。およそ40キロ一寸の行程。爺っつぁんのスタジオからの標高差約350m。
ブログを見ると、鷲峰山に自転車で登山をしている人は多いようだ。その殆どが、ゆるい上り坂とか、ノンストップで登った、とか‥‥。しかし、爺っつぁんにそんなことが出来るはずがない。それでなくとも、寄り道、寄り道の自転車旅、いわゆるポタリング好みの爺っつぁんだから、計画ものんびりそのもだ。だから、11時半頃、金胎寺に到着し、金胎寺をゆっくり見学、その後どこかで昼食をとり、下山し、信楽へ、と思っていた。結果は、予定通りだった。307号線の裏白トンネルを抜け、およそ1キロで鷲峰山入り口の標識が見えてくる。そこからが登り坂の始まりだ。暫く行くと毅池峠に到着する。そこで道路は二手に分かれていて、鷲峰山は右の細い道路を進むことになる。およそ8キロメートルの上り坂。ハァーハァーゼェーゼェーの始まりだ。
爺っつぁんの自転車には、PolarのCS200cdが付いている。これには、心拍計、速度計、ケイデンス(1分間に回るペダルの回転数を表示)、走行距離計、等々が付いている)。それで心拍数の管理をしながら走っているのだ。爺っつぁんの年齢を入力すると、限界心拍数が自動的に設定される。その数値は133だ。133を超えると、ピ^ピーと警告音が鳴る。これが鳴り出すと、爺っつぁんは、自転車から降り、心拍数が110程度になるまで休憩する。だから、若い人のようには走れない。と、言うのが爺っつぁんに都合の良い言い訳だ(笑)。くねくねと曲がりくねった長い上り坂。勿論何度も休んでいる。
ようやく頂上近くに着いた。そこには電波塔が林立していた。その辺りに一等三角点があると聞いていたので、近くまで行ったが、フェンスで仕切られていて中に入れなかった。
そこからおよそ1キロほどは下りになる。自転車ならではの爽快感だ。風を味わうことが出来るのだ。

この山の中を走っているのは爺っつぁんだけか、と思うほどに、自動車も何も通らない。だから、休憩の時も、自転車を止め、爺っつぁんは舗装路の上に大の字になることも出来たほどだ。
気持ち良く下っていくと、右「郷の口」、左「鷲峰山・金胎寺」、と言う標識に突き当たるので、左の道路を進むと、直ぐに、右に行く広い道路と左斜めの小道に分かれている。そこを左に上っていく。暫く行くと急坂になったので、自転車をそこに置き、そこからは徒歩。およそ3−400メートルで山門に到着した。

山門を入ると、正面に本堂らしき建物が見える。その右に庫裏と休憩所のようなものがある。住職に聞いてみたいことがあったが、庫裏の入り口に古びた看板が掛かっていて、そこには、「ただ今買い物中です。連絡は、電話*******」と書かれていた。
この建物の正面を通り過ぎ、奥に行くと「行場めぐり」が出来るらしい。ここは修験者の道場なので、相当険しい山道らしい。そして、この建物の奥50メートルほどの所に展望台があり、その景色も素晴らしかった。
玄関口に戻って、この建物は本堂ではない、と気付いた。その建物は「接待所」というらしい。そこで、本堂は何処にあるのか、と探し回ったが、見当たらない。そんなはずはない、と山門の方を見た。その山門の向こう側に、爺っつぁんが先ほど来た道とは違う細い地道の坂があった。そこには道案内があって、本道、多宝塔と、書かれていた。ふつう、山門を入って本堂や多宝塔、他のお堂があるのに、ここは、山門を入らないで、山門の手前でユーターンをして、本堂へ行くようになっている。何とも不思議なお寺だ。
その道は長くはないが、急坂だ。最後の坂などは引き戻される感じだった。その坂を登りきると、正面に本堂。左側に多宝塔、右側に大師堂、鐘衝堂、役行者堂があった。

時間を見たら1時前になっていた。下山することにした。自転車で和束方面に下り、食事の出来る場所を探していたら、景色の良い場所に出た。爺っつぁんにとっては見慣れた茶園だが、場所が変わるとまた違って見える。自転車を止め、景色を見ていると、その反対側の広場に、水がパイプからこんこんと流れ出ていた。そこで食事をすることにした。コンロを出し、味噌汁を造り、紅茶を入れ、握り飯を頬張った。このような食事は何年ぶりだろう。四国遍路に出れば、日によってはこのような食事をすることもあろう。また、宿が全て満室なら、キャンプも余儀なくされる。だから、今回の荷物の重さは、四国遍路のときに予想される重さにしている。
食事が終わり、のんびりしていると、2時半になっていた。和束までは急坂、と聞いている。細い道を下っていくが、スピードは出せない。25キロほどのゆっくりしたスピードで走る。それでも枯れ草の上にでものれば、スリップして危険だ。また、ブレーキの利きも悪くなっていたので、途中で修理した。殆ど自動車も通らない静かな山道だった。
和束に出て、湯船の茶店で同年輩の婦人とのんびりと話をし、家に帰ったのは5時過ぎになっていた。早朝から夕刻までの一日仕事だった。このコースは気に入ったので、これからの爺っつぁんのポタリングのコースに入れておこう、と思う。

走行データは;
実走行時間 4時間25分
心拍数 最大136  平均 121
心拍限界 133  101
消費カロリー 2129Kc
走行距離 43,1K
平均スピ−ド 9.8Km/H
平均ケイデンス 66回転/分

夜風呂に入ると、足の筋肉はパンパンに張っていた。これが爺っつぁんライダーの実態だ(笑)。
2007年07月21日(土)  No.120 (趣味::自転車ツーリング)

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爺っつぁん・紫峰
爺っつぁんの最高の趣味は陶芸だった。それで陶工になった。60歳を超えての趣味は自転車だ。さて!次の趣味は‥‥??。

神崎紫峰ドキュメンタリー
神崎紫峰のドキュメンタリー・DVD・炎の声が完成!

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