Reprinted with permission from the Nov. 2000 issue of Ceramics Monthly Magazine, PO Box 6102, Westerville OH 43086-6102, USA; www.ceramicsmonthly.org
翻訳: 松川千明
1999年5月21日
信楽に来てもう数週間になるというのに、いまだにこの村の「目覚まし」コー
ルというアイデアには馴染めない:毎朝7時に町役場のスピーカーから大音響
で「エーデルワイス」が流れてくる。そして目を開けるまでもなく私にはわか
る。今日はとても眠いのだが、私は間違いなくこの小さな、皆が働き者の村で
は、一番の朝寝坊の部類に違いない。あの音楽も本来の役目を、恐らくこの私
には果たさない。もったいないことだ:多分あれは、私が感じたようにスヌー
ズ・ボタンのない目覚まし時計などではなく、一日の最初のお茶の時間を知ら
せるものなのだ、本当は。
夢の中へとろとろと戻ろうとしたが無駄だった。この不思議の谷から他の物音
が襲いかかってきた:近所の犬の三重唱、抑揚をつけリズミカルに鳴く、北米
種と親戚筋の大きなアジア種のカラス。だが私の、眠たくもすでに何物
かに居座られた潜在意識をこじ開けたのは、繰り返し「オーオハヨー、オーオ
ハヨー」と鳴く小夜啼き鳥(その名の前半の意味を鳴く鳥自身は忘れているら
しいが)だったに違いない。最近は毎日日本語を少しでも覚えることだけに充
てられている私の潜在意識:「オハヨーゴザイマス・・・オハヨー」・・・
「お早うございます」。「なるほど早いわけだ。よくまあこの大事な日にこん
なに遅くまで寝ていられたものだ」
片肘をついて私は障子を開け、この爽やかでそよ風の吹く朝のやわらかな光を
初めて目にした。開いた障子からは下の、畦のある水田から漂ってくる生臭く
湿った匂いや、夢の中で「白色雑音」にしか聞こえていなかった響きが入り込
んできた:それは水田の中の、ほんの何週間か前には尻尾を振っていた黒いオ
タマジャクシだったはずの蛙たちの大合唱の途方もない騒音だった。下方の谷
間で最も大きな音である車の通行音以外の音はすべてかき消すそのポリフォ
ニー。
朝の往来を眺めていると、信楽という町がわかる:短い鼻先のトラック、屋根
なし荷台の急送便、泥のはねたダンプ、クレーン車、多目的車、バス、冷凍
車(おそらくここから数時間の距離の漁港から「とれとれサシミ」を運んでい
るのだろう)。加えてバイク、スクーター、ミニバン、RV(とりわけ私のお
気に入りは煎餅に車輪をつけたような、小型の平たい超ミニバン)などが、道
や小さな川と並行して信楽の谷の輪郭をかたどっている、ある地点と次を結ぶ
ように立つ電柱をなぞって私の視界を通り過ぎて行く。現在の、拡張された信
楽市街の端へはどの方向へ走っても20分でたどり着く・・・この蕩々と流れる
川の谷に沿って広がり、かつての独立した18の村々を今では包み込む、今でも
人家がまばらで、うねうねとうねるこの町。
道を通り過ぎる者の中で、今日これから起こるはずの出来事について知ってい
る者があるだろうか?
この谷を横切る静かな光景:近所や友達の家の前を通って一列に進んでゆく黄
色い帽子にランドセルの小学生・・・谷のもう一方は緩やかな斜面で、家々の
建ち並ぶ通りはだんだん下り坂になっている・・・どの家の窓やバルコニー、
手すり、屋根にも毛布や布団が掛けられ、パッチワークの模様をなしている−
−夜の間に浸みこんだものを早朝の風にあてて乾かしているのだ。
別の方向へ向かうのはかごつきの自転車で登校する、白い帽子に黒い制服の中
学生の女生徒たち。町の遠い端を目指しているようだ。谷をほぼ完全に取り囲
んでいる低い山、その木の密生した低い山の中ほどまで立てこんだ、瓦屋根
やトタン屋根の住宅街の坂道を、ペダルをこがずに下りてゆく。
そしてそれらの間に、竹藪が点在する。田んぼに沿って続き、山の上の方へ。
谷の上方の木の茂る坂道へ、風に枝を揺らし、しなりながら家々や庭を横切っ
て、消えてゆくまで。
「信楽」−−文字通りには「よく茂った森」−−剃刀のように高くまっすぐ伸
びた杉や、強い赤松や、最もどっりしとして整った姿の黒松などが生えた山々
にはぴったりの名前。
その青々とした美しさの下には、視覚的にも味覚的にも常に主要な農産物であ
りつづけた米の水田が見渡す限り広がっている。田植えがすんだばかりの水面
に反射して、谷の反対側にいる人たちの様子が見える。だがそれが見えるの
は一時のこと:蛙の合唱(この両生類は白鷺にとって年に一度のバイキングの
ご馳走だ)がおさまってゆくのと反比例してずんずん伸びてゆく稲が反射を遮
り、二、三週間のうちに見えなくなってしまうから。
しかし今この時期に私がここにいる最も肝心な点は何か? もちろん焼きもの
に関係がある。信楽は700年にわたって陶芸の中心地であり続けてきた。日本
六古窯のひとつとして知られる信楽は、古代には湖底であった。
新生代鮮新世には、日本最大の淡水内陸湖である琵琶湖は広大な地域へ広が
り、900万年の間今日の信楽の場所をすっぽりおおっていた。こうして湖にお
おわれ、何百万年もの間に堆積した琵琶湖の湖底(「信楽」の上、ということ
だが)の流送土砂は信楽にとって、地質学上の幸いであった。この時代に独特
かつ高品質な粘土が生まれ、後々地殻変動でそのような粘土でできた山々が隆
起し、現在の信楽盆地を囲むに至った。以来それが陶芸における信楽の世界的
地位を保証することになったのである。
数週間前にこの町へ車でたどり着くよりもはるか以前に、私はここ信楽が焼き
ものの世界では非常に名高いことを知っていた。しかし他に並ぶもののない地
位にあるとはいえ、この地域の陶芸がこれほどまでに盛んであるとは思わな
かった。陶芸ギャラリー、陶房、陶器店や工場の数は、最初にざっと町なかを
抜ける国道307号を走りながら数えただけでも、100を超えていた。車に乗った
ままでも、店に入らなくとも、数百万もの器が目に入った。工場の外できっち
りとパレット上に並んだ器、崩れんばかりに店の前に積み上げられた器、器を
抱え出口から駐車場へと急ぐ賑やかなお客たち。そして横町にも入らず、一軒
の店にも立ち寄らず、何も買わず、まるで聖夜の老博士たちのように、立ち上
る一筋の煙に導かれ私は彼方の山の中腹にある穴窯を目指した。
私の寝室の窓からは大きなギャラリーが六軒、間近に見える。新旧さまざまの
素晴らしい焼きものに混じって、「タヌキ」の置物が立っている。型ものの
「幸運のタヌキ」は前足を上げ、信楽を訪れる人たちを歓迎している。
この不思議なものは駐車場に沿って、スポーツ試合のスタンドの観客よろし
く、小さいものから順に並べて置かれている:2センチから4メーターまで
の、何千、何万というタヌキが幸運を招いて手を振っている。
視野の外側で何かが動いた。タヌキの手招きから羽ばたきへと目を移した:26
羽の白鷺がまっすぐ私に向けて飛んできて、家の上を越えていった。今日とい
う大切な日にもたらされた、もう一つの幸運のしるしかも知れない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
今日私たちはカール・ビーマーが十日間焚いた穴窯の作品の窯出しをする。−
−神崎紫峰氏の招待で、氏の窯で行われた窯焚きである。一見これはとくにめ
でたくも何ともないことかも知れない、特に信楽のような場所にあっては。信
楽ではこの700年間、窯出し、窯詰め、窯焚き、冷ましがどこかの窯で行われ
ていない日は一日もないと言っても過言ではない。このような歴史を持つ場所
であるから、また一つ窯出しが行われるということは、信楽にあってはまった
く珍しくも何ともないかも知れない。なぜこの日がこんなに待ち遠しく、こん
なに素晴らしいのか?
今日という日がもっとも素晴らしいそのわけは、過去の珍しい、想像を絶する
出来事の数々に遡る:十年近く前、米国ペンシルベニア州のブルームズバーグ
市助役だったジェラルド・デポは、日本の市と姉妹都市提携を結ぶにあたって
実現可能なきっかけを日本のコンピュータ・システム・コンサルタントに打診
していた。
交渉を重ね、現地の町職員と関係を発展させるべくブルームズバーグ市の助役
は信楽へ行くことになった。
元々の訪日計画では信楽の陶工、神崎紫峰氏がデポを迎えることになってい
た。卓越した陶工であるということに加え、神崎氏はパソコン通信のパイオニ
アでもあり、その数年前に「琵琶ネット」を立ち上げていた。
予期せぬ日程上の問題で、デポが信楽に滞在する期間中ずっと、神崎氏は展示
会のため東京に居なければならなかった。そしてデポは神崎氏に出会うことな
く日本を後にしたのである・・・しかし幸運にも、たまたま神崎の本や図録を
何冊か手に入れていた。
ブルームズバーグへ帰った後、それらの本や図録は、州立ブルームズバーグ大
学で陶芸を教えている地元の大学教授、カール・ビーマーの手に渡った。後に
ビーマーは、神崎の作品の写真を見てその虜となったことを認めている。「私
が二十年の間心に思い描き続けて、でもどうすれば実現できるかわからずにい
たのがその作品だった」
即座に、神崎氏と実際に対面するよりも先に、ビーマーとブルームズバーグ大
学は神崎を客員作家兼講師として招待した。
神崎は逆に、デポとビーマー、それにブルームズバーグ大学の芸術学部長を招
待した。「私が訪米する前にこちらへおいでになって、私の町を、家を、陶房
を見て下さい。私の作品を見て、私の生活の仕方を体験して下さい。それから
アメリカへ行くかどうかを決めましょう」
アメリカ側の三人は賛成したが、再び運命は彼らの来日の邪魔をする。アメリ
カからの到着予定日の二日前、信楽で痛ましい列車事故があり、48人が亡く
なった。町にとってのより緊急事が考慮された結果、、訪日団と町職員および
幹部間の全ての公式訪問はキャンセルを余儀なくされた。
そういうわけで三人の行動は、少し観光して大部分の時間を神崎家で過ごすと
いう具合に制限された。
だがビーマーは神崎と過ごし、その作品に触れて、招待作家として彼を大学に
呼ぼうという念をさらに強くした。そして信楽での悲劇にもかかわらず(ある
いは幾分はそのせいかも知れないが)、デポ氏は信楽町と姉妹都市になる協定
を最終的に結ぶ準備を完了させつつあった。
1991年の終わりに神崎は念願のブルームズバーグ訪問を果たした。しかし文化
の違いによる誤解の連続と度重なるの通訳の誤りのせいで、神崎の体験はほと
んど惨憺たるものといってよかった。彼は戸惑い、混乱し、正しく理解されて
いないと感じていた。「何度もこう言おうとした、『私はいつも作品を作ると
きには魂に従って作る。それは仏に、自分の人生哲学に従うということだ』
と。
だが通訳は私の言うことが理解できず、翻訳することもできなかった。だから
私が本当に話したかったことをみんなに言う機会がなかった」
ブルームズバーグでのやりとりがあまりに混乱したため、何カ月か後、ペンシ
ルベニアに穴窯を築かないかとビーマーから招待を受けた際に、神崎氏はそれ
を退けた。(特別に設計した穴窯をアメリカに築くことが、彼が人知れず抱い
ていた生涯の夢であったにもかかわらずである)
一年が経ち、ブルームズバーグは再び神崎に、ペンシルベニアに来て穴窯を築
くことを考えてほしいという招待状を送った。腕を伸ばしてその招待状を受け
取ったまま、神崎はただこう言った。「ミュンヘンで展示会があるので大変忙
しい」
神崎が驚いたことには、デポ氏はこう答えてきた。「(ミュンヘンに)行きま
す」
神崎氏と同じくミュンヘンに滞在する間、デポ氏はこう伝えた。「もしまたブ
ルームズバーグにおいで下さるなら、我々は皆歓迎いたします」
ミュンヘンでの展示会の後、神崎氏とその妻卿子はブルームズバーグ経由で日
本へ帰国した。今回は異文化交流の上での小さな行き違いは問題にならなかっ
た。ビーマーも神崎氏も1992年を振り返り、この渡米の間にお互いの「心も精
神も暖かい」ことがわかったという。
ブルームズバーグのカールとジニーのビーマー夫妻の土地に1993年に穴窯を築
くプロジェクトのための計画が、すぐさま立てられた。
1993年夏、神崎とビーマー、それに神崎の弟子二人によって「カールと紫峰の
ドリーム・キルン」が築かれ、窯焚きが行われた。ビーマー宅に長期間滞在
し、ビーマーと神崎の間の友情とお互いへの尊敬の念はより固くなった。
「カールとジニーは心から暖かくもてなしてくれた。私たちのために何でもし
てくれた」と神崎は語る。「カールに自分が考えていること、感じているこ
と、自分の哲学を話して、二人の考え方が似ていることがわかった・・・自然
や宇宙を同じように理解していた」
以上のような、およそありそうもない、回り道をしながらの出来事の連続はし
かし、ついにビーマーが1999年5月のこの大事な日に信楽にいることを実現さ
せるに至った氷山の一角に過ぎない。神崎の招きで、カールは3月から5月ま
でを神崎氏の陶房でふた窯分の作品の制作に費やし、神崎の穴窯を二度焚い
た。この共に過ごした数カ月は、神崎にとってはまた信楽の伝統をもっとビー
マーに伝えるための機会でもあった。今日はその二度目の窯出しの日であり、
今回の作品で2回の展示会が予定されている:ひとつは信楽で、もうひとつは
古陶の里、丹波で。神崎とビーマーの共通の友人である私は、この素晴らしい
企画に参加し、見届けるよう招待されたのだ。
ビーマーは彼の立場から、この重要な日へと続いた一連の突飛な出来事をよく
考えてみた。「我々の人生に起きる出来事は全て、それがどんなに天使のよう
であろうと悲劇的であろうと、学習と自己改善のための絶好の機会なのだ。私
たち(神崎氏と私)の関係はただ信頼のみに基づいている。私はいつも彼に与
えるより彼から得るもののほうが多い」
ビーマーは続ける。「私たちの関係はまた大変なエネルギーを要するものでも
ある:私たちは地球の反対側からやってきた石頭どうしなんだ;全く違ってい
てしかも完全に似ているんだ」
ビーマーは問う、「探し続けていた、言葉では定義できない美を現実のものに
しようとして挫折して、それを説明することさえままならないとは一体どうい
うことか? 今回の作品のようなものを二十年前に心に描いたが、それが何な
のかわからなかった。今私は自己実現を確信している:満足はしていない・・
・だが興奮している。私は自分の働きに満足している。満足のうちにすべてを
燃やし尽くしたいと思っている」
ビーマーは言う。「私はいつも宇宙の力を信じてきた・・・今も本当に信じて
いるよ! 神崎の人生観によって私は、何が大切で何がささいなことか、より
よくわかるようになった。私は作家として、教師として、人間としてより良い
ものとなった・・・<価値を超えたんだ。>神崎や、彼の家族や、彼の友人達が
ビーマー家の一部<なんだ>。簡単に言えば、彼が私を日や月の光の彼方へ連
れていってくれたんだ。いずれ私はこの穴窯が私を日と月の光の彼方へ連れて
いくのを見ることになる」
神崎が付け加える。「今や作品において、カールはもはや先のことを案じてい
ないし、形やうわべを気にしていない。そのかわり心と魂に従って作るように
なった。彼の作品には彼の心と魂が満ちあふれつつある」
「カールは伝統的な意味では「技術」を用いていない。技術は彼の心と魂に
従っている。それが一番大切なことだ」
−−−−−−−−−−−−−−−−−
そして、まさしく26羽の白鷺は良い兆しに違いなかった:ビーマーの窯出し
(赤松で十日間焼成した)は最高の作品をもたらした・・・この作品が、空を
超え日と月の光の彼方へとビーマーを運んで行ったのだ、おそらく空を舞う白
鷺のように。
ディック・レーマンはインディアナ州ゴシェン在住のフルタイムの陶工兼ライ
ターで、各国の陶芸雑誌への寄稿も数多い。神崎氏の招きにより信楽と丹波で
ビーマーと共同展を行った。
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