たっぷりふた窯分の作品を作り終えた私は、1999年4月2日金曜日にやるべき
ことの短いチェックリストを作成していた。朝のうちは晴れていたが昼頃に
は激しい雨になった。作品を外に出して窯へ運ばねばならないので心配になっ
た。作品は生なので強い雨では作業にかなり支障を来す。だがとりあえず窯詰め
用
の粘土を用意したほうがよいかと聞いてみると、それがよかろうとの答えが
返ってきた。どれを使うかは自分で決めるのだが。ちょうどうまい具合にバケツに粘
土が残っ
ていたのでそれを使うことにした。
4月3日 土曜日
ここで神崎さんの穴窯の構造を説
明しておきたい。ブルームズバーグ
に二人で
窯を築いたとき、神崎さんはゼーゲルコーンや温度計は使わないと言い切り、また窯
が全部教えてくれるのだと言った。窯焚きの間は窯や煙の様子や音から次になすべ
きことを
決定していくものだと教えられた。どんな窯でもそれが基本
だが、今度ばかりは不安だった。割り木の具合、器に影響する空気の流れ、詰め方
など、どれも初めてのことばかり。この窯はロストルつきなので微妙な
調節はやりやすい方だった。火入れはロストルの前の地面でする。すぐに火は
焚き口へと引かれ、窯の内部に暖かい空気が入る。珪素炭化物の5本の棒でできたロ
ストルを通って暖かい空気が窯の内部へと引かれ、焼成
室から煙突へと抜けてゆく。高さ30センチほどの煙突にはてっぺんに珪素
炭化物製の棚板の蓋がある。焚きはじめは煙突は全開だ。ロス
トルの前部には上の火袋の焚き口と空気調節のできる煉瓦の壁がある。最初の24時
間
(主に夜)に火は徐々に大きくなり下の火袋へと移る。こうして一日目の終わ
りには火は勢いよくロストルを通って燃え上がり、床には熱いおき炭が10センチ溜
まる。10分間隔で割り木を投げ入れること2,3回で、
上の火袋が燃え始める。次に珪素炭化物の棚板を2枚、下の焚き口に
垂直に立てる。並べた2枚の板の間は2センチほどあけておき、そこに煉瓦
を横にして7個積む。煉瓦で2枚の板は固定され、煉瓦を1センチほどずら
せば空気がおき炭の上に流れ込みロストルを抜けてゆく。たくさんの煉瓦を動かせ
ばそれだけ空気の流入は強くなり火は窯のアーチに沿って走る。上の焚き口
の真下の煉瓦2段も動かせるようになっている。ふだんは上の列は固定して
あり、下はずらして、5センチほどの隙間を開けてある。下を閉じ
て上を開ければ空気と炎の流れはまっすぐ窯の中心へと向かう。これと煙突の
開閉との組み合わせで窯のどの場所にも火と灰を送ることができる。火袋に
大きな作品を置いた場合でも簡単に炎を窯の天井へ流すことが出来、作品に不具合は
起きない。焚いている間は焚き口の空気口も中心から左右へ
動かせるので特定の場所へエネルギーを送ることができる。そうして炎や釉の
流れを窯の上へ、下へ、真ん中へ、右へ、左へと調整できる。今回の窯詰め・窯焚き
のパートナーは松川広己だ。午後1時に窯詰めを開始。神崎さんは膝を痛めるか
ら私は窯の中には入らない方がよいと強く言った。私が両膝を手術したのを知ってい
るの
だ。松川サンが火袋の
詰め方を訊いてきた。窯を焚いてもう18年にもな
る彼がそう訊くことが私には解せなかった。多分私はここ信楽では熱心に行われるこ
とを、ブルームズバーグで無
頓着に、あるいは無知のまま行っているのだろう。私はいつも最も背が高く細い形の
ものを火袋の両側へ置くのだが、たぶんここのやり方と一番違っている点はそこだ
ろう。気温は摂氏2度もなく、じっと座って作品の場所を指図し
ていると凍えそうだ。
この窯は長い間焚かれていないので冷たく湿っている。私は窯の外にいて中を
覗き込みながら指図をするよう努めた。中のどの作品にも炎が当たるか
どうか、焚き口から常にチェックした。前から見えない作品には自然釉はあま
りかからない。それぞれの作品の場所、位置が全体との関係でとても重要にな
る。作品の下にはトチンを置く。トチンと煉瓦との間には粘土を置く。その粘土に
は水酸化アルミニウムをまぶす。ト
チンは前もって型でつくっておいた生のもので、円盤に小さなとんがり帽子がつい
ている。こうしておくと熔けた灰が作品の表面を下ま
で流れても作品が棚板にくっつかないし、粘土も必要以上に置かなくてす
む。それ
でもこの窯でできる釉の量からすると、作品の底の仕上げに一週間はかか
るだろう。志野茶碗は今日灯油窯で素焼きを終えた。夜の10時までに火袋の窯
詰めを完了し、灯油窯へかかった。神崎さんにし
てみれば私は灯油窯に時間をかけ過ぎらしい。少々バーナーの調子を上げて夜
中の12時半ごろにベッドへ帰って休んだ。
4月4日 日曜日
私たち(私は松川広己と一緒に中へ入っている)は上記の如く窯
詰めを続け、正午ま
でに火袋と1段目の下半分を詰め終えた。どの段も窯のアーチへ向
かって詰める。灰は窯の床へだけでなく上方へも激しく流れるからだ。昼食後
6時までかかって1段目の上半分を詰めた。夕食時、2段
目の下半
分は広己に詰めてもらって私は志野茶碗の釉がけをしたらどうかと神崎さんが言っ
た。外の気温
は2度だと思われたので私はあまり異議を唱えなかった。重ね着用の衣服を
充分持参しなかったのは大失策。大きなポリバケツで志野釉を調合し
た。
神崎さんがずっと前に信楽の近所で集め何年も保管していたのを挽い
て鬼板をつくった。この材料を使わせてもらえて実に光栄に思った。先
程言うのを
忘れていたが志野茶碗がまだ生のとき、表面を削った。こうすることで器
の内側は釉で滑らかになり、外側には小さなでこぼこ模様ができ
る。こうした下準備の後、志野の作品のうち半数に鉄釉を施した。チャック・ハイン
ズが以前信楽に来た際つくった茶碗の釉がけも
した。内側には釉をかけ、外側は釉に浸した。外側は、釉の厚みがうまく白と
ピン
ク(オレンジ)のコントラストを生むよう、浸すタイミングを計った。この日
は11時半に終えた。
4月5日 月曜日 窯焚き1日目
広己と2段目を詰め終えた。効果を狙って横置きした作品もある。3
6セン
チの楕円形の板皿4枚は棚に置いた作品のさらに上に、窯の床の段に立てかけるよう
にほぼ垂直に置いた。3段目には志野茶碗の入った匣鉢(さや)を48個
置いた。匣鉢を4個重ねたのを4つでひと組とし、それを3組つくった。高熱でツク
が変形することも考慮して、組がバラバラにならないよう4個重ねた上には棚板を載
せた。その棚板の上にもいくつか作品を置いた。大物2つはなんとか横穴から入れ
て、4段目の床の上、ちょ
うど横穴の前へ置いた。午後8時、窯の正面を元通りにして横穴を煉
瓦で閉じた。窯の周囲を掃除して割り木を準備した。午後9時、神崎さんがお念仏を
唱え火を入れた。私は神崎さんと広己サンに感謝しつつ
も、ここでこ
の素晴らしい人たちとよい仕事ができることへの感激と戸惑いが相半ばした。
広己は土曜日から来ており、今日から10日の窯焚き中ずっと滞在するのだ!
互いに礼儀正しく頭を下げあい、柔らかな炎に照らされ
て、私の感動は体の中では収まらぬほど大きくなり両の目から外へほとばしり
出た。
皆が感情的になっているのに気づいた神崎が、私のシフトは午前4時
から
午後4時までだと言った。割り木を並べて温度をチェックしなければ! せっかくの
仕事がだめにならないように。温度は赤熱状態になるまで1時間に摂氏で20度の割
合で上昇するだろう。卿子サン(訳注:神崎卿子)がペプシひとケースにブレン
ディ、ク
ラッカーとカップヌードルを運んできた。大きなボトルに入った濃い、砂糖入りのブ
レン
ディは私の好物だ。早朝の食事は窯のそばにある小さ
な台所でとる。使い方を教わった。神崎さんに、この窯は容易にしかも早
く温度が
上がるので気をつけるようにと言われた。後ろの大物は厚みがあるので微妙な
調整が必要だった。午後11時までに下の火袋のほうがうまく引くように
なり、窯が乾燥してきた。正面の壁へ向けてごくゆっくり炎が吸い込まれてゆくよ
う、ゆっくりと割り木をくべつづける。規則正しい作業は夜通し続いた。午前4
時に
休む。
4月6日火曜日 窯焚き2日目
午前11時に・・・なんとか起床。神崎さんは昼に起きてきた。3時半
から窯の番をし、広己が煙突のてっぺんを直した。午後5時には下の火
袋が割り木でいっぱいになった。今では炎がロストルから12センチも上がっ
ている。午後6時に広己が煙突を直し終わったので火の通りはもっと強
くなるだろう。午後7時半に焚き口を上の火袋に移す。割り木の投入は10分
おき。長さ45センチの割り木を3束ずつくべる。一束がちょうど両手の中に
入るくらいだ。太さは5センチなので作品が損なわれることはない。くべ
た割り木が崩れて当たると生の器は簡単に壊れてしまう。焚き口の蓋の持ち手は非
常に小さく、私の指では3本、軍手を2枚重ねていては2本しか入らない。だ
が2本入れば作業には十分だ。広己と午前4時に交代して就寝。
4月7日 水曜日 窯焚き3日目
午前11時に窯へ戻る。左右の火吹き穴からは赤橙色の炎が見える。窯の調子
を見て割り木を投げ入れる。くべた直後には最初は赤い、次いでオレンジ色の焔
が上がり、6−7分で消えてゆく。地面に置いた煉瓦4つは厚板から1センチ離
してある。焚き口のすぐ下の空気孔は4センチほど開けてある。煙突の蓋は1
4センチ開いている。作品は幾分てかっているように見える。後ろの大物2つ
は異常なく、調子いいようだ。焚いて、焚いて、焚いて・・・・・・午
後4時に広己が軽トラックに4杯、割り木置き場から割り木を運んできた。午後
11時半、火吹き穴からオレンジ色の強い焔が、煙突からは鈍く透き通った赤
い炎が出ている。夜は寒くしんしんとして、雲ひとつない満天の星空だ。おま
けに雪まで降ってきた! 「おぅ・・・・・・珍しいな」と神崎さん。
同感。午前4時に寝る。
4月8日 木曜日 窯焚き4日目
明るくよい天気で、風が強い。午前11時、作品に釉が流れ始めた。熱気の
中で一定の間隔を保っての割り木の投入が続く。午後4時私が交代し、広己が軽ト
ラック
5杯の割り木を運んでくる。くべるたびに煙突から赤い焔が激
しく上がる。午後6時、窯は次なる段階へ達し、煙突からは黄色い焔がポンと
上がり始めた。間欠的に1回だけ起こるものは P 、踊るように何度も破
裂するものは PP と記録する。煙突が温度計が代わりだ。まだ温度が低い時
は鈍く赤い炎で、やがて赤熱の温度になると P や PP があらわれる。最も高
温になれば割り木を投入した直後に明黄色の大きな炎が爆発する。これは
B 。今日窯焚き4日目は夕方から夜にかけて P と PP が繰り返し見られたこ
とになる。窯焚きは夜を徹して続く。
4月9日 金曜日 窯焚き5日目
今日もよい天気だ。作品はみな上々のようだ。温度はすでに白熱に達して
いる。割り木を入れる時に火袋と1段目を素早く観察する。この早朝から灰が熔け
自然釉となって流れているのが見える。煙突からは B が出ている。今日はイ
ケイケだが昨夜は調子を落とすために煙突の開きを13センチから12.5セ
ンチにした。その後おき炭が下の火袋へ溜まるにつれ火は調子を落とし最高温度に
達するのが難しくなった。が今や窯は走り出さんばかりの勢いだったので、下の
火袋の前の、上から3つめの煉瓦を厚板にくっつけた。上の3つの煉瓦が厚板に接
し、下の4つは離れていることになる。午後5時、温度を少し下げるよう試みる。京
都大学
工学部の学生である高橋が窯焚きを勉強しに来た。明日広己の
代わりができるだろう。夜から翌日朝にかけて、だいたい PP で安定。
4月10日 土曜日 窯焚き6日目
朝は曇っており、昼前にしっかり降ってきた。窯は最高熱の一歩手前を保って
いる。釉はよく流れており、棚板へ垂れているところもある。すごい! 午後
6時に大雨になり、午後10時には窯の温度が下がりだした。焚き口の下の穴を4
センチ開けると窯は勢いを取り戻した。午前1時には空は晴れ渡り、以前にも
増してきれいですがすがしく、明るく、活気に満ちていた。
4月11日 日曜日 窯焚き7日目
暖かくよい天気だ。窯を見に大勢の人が訪れる。午後、気圧が下がり空模様が
変わる。火の勢いが少々弱まったので午後4時、下の煉瓦をもう1つ開ける。
午後7時になっても窯は悪戦苦闘しており、弱い PP しか出ない。焚き口の蓋
をほんの少し傾け、空気がよけいに中へ入るようにして焚き続けた。間もな
く煙突からは強い PP が出だした。朝になる頃には再び黄色い焔が激しく爆発
するようになった。そのまま調子を上げてゆき、煙突を2センチ閉じて、焚き口の
下の穴を閉じた。高気圧に覆われて風も吹き、温度も上が
りやすくなった。
4月12日 月曜日 窯焚き8日目
よい調子が続いている。がまたしても午後4時、空気が重く、どんよりとして
きた。窯の調子も落ちてきた。煙突からはオレンジ色の炎が見えるだけだ。下
の火袋の煉瓦をもう1つ開け、煙突の開きを12センチにした。深夜12時半に窯が
また唸り始めたので焚き口の穴に煉瓦を置いた。それでも調子が落ちな
かったのでもっと大きな煉瓦で空気が入らないように完全に塞いだ。夕方
までが一番低調で、午後11時から午前6時がもっとも激しかった。少なく
ともこの窯焚きではそれがパターンだった。作品は置いた場所を保っていた。
至るところに釉の景色が見えた。棚板には水のごとく釉が滴っていた。最後
の5日間、ほば3回割り木を投げ入れるたびに火袋のおき炭をかき回した。道具は先
が平
たくなったものでも尖ったものでもよい。火袋の中でおき炭がよく燃焼し、灰が一
カ所にかたまらないようにし、作品におき炭がかかるためにするのがこの作業
だ。こうすればおき炭が溜まっている場所では器の表面にコントラストが生じ、素晴
らしいピンクや
紫色が出る。
4月13日 火曜日 窯焚き9日目
朝はからりと晴れたっぷりとそよ風が吹いていた。 B が続いており、出るに
任せている。夜、神崎さんが私を楽しませようと、最高温では窯はど
うなるだろうと言い出した。私はどんな話題だって歓迎だ。その夜じゅう
私たちは壊滅的なメルトダウンやそれによって生じる、見たこともないような
色彩や何やかやについて話していた。いったん話し出すと二人とも相手を負か
そうとむきなって、想像しうるかぎりの究極の可能性を述べ立てた。かつてないほど
の熱では窯の中の棚板には穴があき、作品には一
面にまだら模様が残るだろう、などと。実際には私たちはひどく
疲れていた。午前4時に広己に交代。彼は私たちのいうことなど話半分に聞いてい
る。
誰もかれもが疲れていた! 日中いっぱいは温度を下げるため上の空気孔
に栓をして焚いていた。午後5時滝川サンが息子を連れて見学にやっ
てきた。やがて滝川サンのお寺の人たちも到着した。焚き口の栓を外すと
再び窯は高温になり、くべるたびに煙突からは大きな炎が爆発した。みな焔の
様子に見とれているようだった。一行は丹波で予定されているディック・レー
マンと私の展示会のスポンサーであり、窯焚きの具合と結果に、気まぐれ以上の興味
を持ってくれていた。丹波組は午後9時半までいた。高温で焚き続
けていると日付の変わる頃阿頼耶サンがやってきた。こんな時間に来る人
がいるのかと驚いた。神崎さんが阿頼耶サンは夜行性で、ホタル
の撮影と窯焚きのときは特にそうなのだと説明してくれた。広己が午前
1時に起こされ、火を止める際に使うメジ土の用意を始めた。2時、火袋の作
品の最後の調整に入った。壁に接しているのはあまり好ましくない。理由は明
らかで、冷める間にくっついてしまうからである。窯詰めの際の私の狙いが
今や私を苦しめていた。なぜこんな置き方をしてしまったのか? この種の窯
では窯壁から作品に伝わるエネルギーは炎の副作用と言っても過言ではなく、できる
限
りそれを利用したかったのだ。10日間の窯焚きで前方の作品のうち4つは傾
き、壁に接してしまった。軍手を2枚、シャツを3枚重ねた私は、太さ1.2
センチの先が鈎になった火掻き棒で作品を引き寄せ、壁から離さなければなら
ない。広己がたくさんの割り木を入れ、私は火の勢いが収まるのを待ってから
窯の中に火掻き棒を入れ、まず一つを壁から離そうとした。作品はびくともせ
ず、30秒もしないうちに鉄はぐにゃぐにゃのオレンジ色のうどんと化
し、引っ込めざるを得なかった。再び元の温度に戻るまで焚き釉はいっそう
よく流れ出した。もう一度試みたが結果は同じだった。三度目は違う道具を
使って、作品と壁の間に入れてこじるようにしてみた。またしても釉はあまり
にも強力で棒はすぐに軟らかくなってしまった。窯の側に用意された水は窯の熱で
湯になっており、棒が十分冷ませていなかったのだ。軍手と服の袖は
熱を帯び、燻っていた。四度目、右側の二つ目がぐらぐらした。ここぞと
ばかり私は渾身の力を込めた。五度目、左から二番目の作品が壁から離れ、おき炭
の中にゆっくりと45度の角度で止まった。この時点で、できることはすべて
した以上残りはそのままにしておくことに全員が賛成した。最後の割り木が火袋いっ
ぱいに詰められた。割り木は通常より小さく、4センチ角ほどの大きさだった。最
後は素早く、5分かそこらで焚きあげた。猛烈な熱で、割り木は焚き口の四分の三を
塞いでいたがバックドラフトで火が溢れてくる。別の割り木で中の割り木を押し込
む。最後に焚
き口、下の空気孔、左右の火
吹き穴を閉じ、粘土で目張りをした。煙突からは炎が唸りをあげていた
が急速に収まっていった。煙突の蓋が閉じられた。5分もしないうちに蓋の
すき間二カ所から細い炎が噴き出した。明るいピンクと紫色の炎で、私は初め
て見るものだった。それは45分続き、ついに火は見えなくなった。窯焚きが
終わったのは午前4時半だった。
4月25日 日曜日
窯出し
この日の私の日記はひとことだけであとは空白になっている。それは・・・
「とても言葉では書き表せない」。この五年間神崎に教えられ窯焚
きの経験を積んできた私は、それなりに自信もついてきたが、それでも心配でな
らなかった。窯焚きの間、釉がよく流れているのを見てはいた。だが窯出しを
見ようと人々が集まってくるにつれ、私は落ち着かなくなっていった。丹波組
だけでも10人はいた。それだけでも私には多すぎた! 今回は私の日本初の
窯焚きだ。もっとひっそりとできないものか? 皆の目に何もかもが晒され
てしまう。今や作品が全てを語る。ここでこうして素晴らしい人たちと仕事が
できたというこの上ない好条件のもと、結果が悪いはずがない。だが、もしも
駄目だったら? もう遅い、私たちは窯の前へと移動した。焚き口を開ける
時がきた。もうたくさんだ! なんとか平静を保とうとしたが無理だった。蓋
を開けて神崎さんと私は作品を見た。照明なしでも次第に色や肌の様
子が見えてきた。素晴らしかった。このホームページの画像をご覧の上判断していた
だくとして、ここでは私は作品についてこれ以上言うまい。二人で火袋の作品
を取り出していると誰かが窯の横へ来て蓋を外した。すぐに皆一列に並び、
窯の中から作品を受け取っては丁寧に見て次の人に手渡し、窯の前の平たい地
面に置いていった。このときの私は、並々ならぬ力を目の当たりにしてただ驚
いて立ち竦んでいた。窯焚きの過程から得られうる全ての色、全ての肌がそ
こにはあった。ただひとつ、瀑布窯変を除いては。壁にくっついてし
まった作品でさえわずかな痕跡が他とは違った美しさとなっていた。私は自分
の家にいるときのように作品を飽かず眺め、このような結果は何の作用によっ
たのかと心に思い描いた。私にとってそのどれもが特別な過程なのだ。器を窯に詰
め、焼きあげることほど素晴らしいことはない。この窯焚きもまた、他の多くと同
じく、大変満足のゆくものだった。
今回の経験にあたり、神崎紫峰、わが妻ジニー、私の家族(日米の両方)、ブ
ルームズバーグ市ならびにブルームズバーグ大学とその芸術学部、そして日本とアメ
リカのすべてに心からの感謝の意を表します。私はいかにあるべきか、何をなすべ
きかをじっと考えました。私に出来ることは「自分自身であること」だけでし
た。その自分自身が十分に善きものであるかどうか、私の不安は募りました。
だから私は神崎の陶房で長い時間作陶することで慰められたのでした。神崎邸
には3カ月半滞在し、その間神崎家の皆さんにはお世話になりました。窯詰め
と窯焚きのパートナーだった松川広己は器の大きな、優しい男でした。この経験すべ
ての根本にあるのは神崎紫峰の生き方です。私は自らの心のままに作品
をつくり、焼きました。しかし人生においてことごとくそうであるよう
に、ここでもまた経験と技術、知恵、それに皆さんの支えで私はさらに大きくなれた
のです。
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