信楽焼の歴史

 有史以前の信楽をみて見ると、昭和63年、信楽町宮町にて狩猟動物解体用とみられるサムカイトの石器が発見されている。このことから、まだ推測の粋は出ないが、この付近に縄文から弥生時代の生活の痕跡を見られるかもしれない。また、信楽北部には古墳時代末期の古墳が2基あり、相当に早くから開けた地域であることを語っている。

 歴史時代にはいると、和銅年間(708-715年)飯道寺が信楽北部の山中に開基され、最盛期には全山僧坊36を数えたという。

 信楽の町の歴史を語る上で欠かせないのが、奈良に都が移る以前に、信楽に都があったという事実だ。つまり、天平14年(742年)、聖武天皇のみぎり、紫香楽の宮造営の勅命が出た。最近まで、信楽に本当の都があり、政が行われていたことについては異論を唱える人も多かった。かって発掘され、宮趾と言われていた史跡が、国分寺の遺跡であって、宮跡とは言えないというのがその見方だ。しかし昭和48年から49年にかけての圃場整備のおり、今まで言われていた宮跡からおよそ1、5キロ北方の田の中から巨大な三本の柱が発見された。この柱の太さは40から50センチ、長さ60から70センチのもので、宮跡級の柱根と確認され、以後今日に至ってもその調査は継続されている。この発掘で、土器、高坏、須恵器、土師器、木簡等、貴重な資料が出土している。天平15年(743年)の10月15日には大物造顕の詔勅が発せられた。この詔勅が後に現在の東大寺大仏となる。翌日16日、東海、東山、北陸三道二十五国の調、庸等の物を紫香楽宮に貢がせしめている。ここにいたって紫香楽の宮は都としての認可を受けたことになる。ところが天平17年(745年)4月1日、3日、8日、11日と紫香楽の宮近郊での山火事が相次いだ。それに加えて、4月27日の記述に、「この日、通夜、地震すること三日三夜」とあり、5月1日から10日まで連日地震の記述がある。このため天皇は、平城宮への遷宮を決定した。(以上続日本紀、正倉院文書)

 このように信楽焼きの歴史を語るとき、その始めを縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器等、いわゆる焼き物の始源にまで遡ることもできるが、われわれ陶工がそれを語るときは、中世の焼き物(平安時代末、12世紀末)にその始源を求める。なぜならば、本格的な硬質陶器が焼かれたのが中世だからである。ただ、中世の信楽焼も須恵器の流れをくむものであり、その発展の上に信楽焼の始まりがあることは否定できない。中世の窯の代表的なものは、中世六古窯とか、日本六古窯と呼ばれ、信楽焼もそのひとつだ。

 中世の信楽古窯についての本格的な発掘調査は一部にとどまるが、雲井地区(聖武天皇が都を作った地域)だけでも47ヵ所の窯跡および灰原が確認されていて、勅旨、長野、神山地区を合わせると、100ヵ所を超えると推定されるが、未調査のまま破壊されたものも少なくないのは残念だ。

 信楽の町は滋賀県の最南端に位置し、南には三重県伊賀、西南は京都府と接している。交通にしても、信楽から伊賀までは車で20分、奈良京都にはおよそ1時間、三重県の津までは1時間、大阪の枚方までは沁條ヤと、どこに出るにもそれほど時間を要しない。このことは、聖武天皇が奈良から信楽への新しい道を作り、都を作ったのも、この信楽の地が交通の要所だったからに他ならない。

 この信楽の北に位置する宮町から北西、およそ16キロの所に鏡山という小高い山がある。この鏡山の麓からは須恵器窯が50基以上発見されていて、一大集落をなしてなしていたことを伺わせる。『日本書紀』垂仁天皇三年の条によると、「近江の国の鏡村の谷(はざま)の陶人(すえびと)は、天日槍(あめのひぼこ)の従人なり」と書かれている。この陶人というのは、須恵器生産に携わった工人のことだ。須恵器は『穴窯』で焼かれたもので、還元焼成の焼物だ。焼成温度は摂氏1100度から1200度までのもので、自然釉の掛かるものもある。そしてこの鏡谷と信楽の中ほどに位置する水口町泉に下山古窯跡がある。この他にも中世以前の灰釉陶器や緑釉陶器を焼いた窯跡も信楽の近くにはたくさん存在する。これらの地では5世紀から12世紀まで生産が続けられていて、このことが信楽焼の発生と多いに関係すると思われている。

 『工芸志料』によると信楽の開窯は弘安年間(1278-87年)『北条時宗、貞時時代』と記されている。これは出土品からも当を得た記述といえる。そして、中世の焼き物というとき、16世紀までを言い、17世紀つまり徳川時代からは近世の焼き物という。徳川時代にはいると、信楽のみならず各地の窯場では、それまでの穴窯に代わり効率の良い登り窯を取り入れることになる。

 穴窯をテーマにしているここでは、江戸時代まで、つまり16世紀の末までが歴史的テーマとなる。

 室町時代になると、茶がおこり侘茶の求める日本本来の美、『わび、さび』と焼締め陶の持つ素朴さが一つになり、村田珠光(1423-1502)が信楽の焼物をお茶の道具として取り入れている。珠光が現われるまでの茶道は、書院唐物飾りだった。だが珠光はお茶に精神性を取り入れ一休から受けた直入の精神性、能阿弥から受けた書院茶の法を一つにまとめ、それまでの茶の湯を茶の道つまり茶道にまで高めた。後の千利休(1522-1591)も「法は紹鴎に得申、道は珠光に得申」と述べている。この珠光が和物の備前ものや信楽ものにその美を見い出し茶に用い始めた。この頃の信楽はまだお茶の道具としてのものを作っておらず、珠光は、その頃信楽で焼かれていたものを茶道具に転用していた。珠光が見い出した草庵茶を一層押し進め、侘茶の方向を求めた武野紹鴎(1502-1555)は、信楽苧桶(鬼桶)水指を茶に用い、侘物にその美を見い出している。そして、紹鴎信楽と言って、彼の好みの信楽を茶に用いまた、自分の好みを信楽で作らせている。彼の弟子に千利休を筆頭に、津田宗及、今井宗久がいる。

 千利休(1522-1591)は茶の湯の大成者だ。彼は早くから茶の湯を好んでいて、16歳で、茶会を開いている。そして19歳の時(1540年)武野紹鴎の弟子となった。同時に禅に親しみ参禅をしている。信長の時代には、津田宗及、今井宗久と共に信長の茶頭となり、本能寺の変(1582年)で信長横死の後は豊臣秀吉に近づき秀吉の茶頭となり、その名を天下に知らしめた。当時「宗易(利休の別名)ならでは関白様へ一言も申し上る人無之」と噂されるほどに秀吉の近くにいた。その彼が、1591年2月13日、大徳寺山門に乗せた木像事件その他で罪を着せられ、28日切腹させられた。この切腹事件の理由については未だに謎とされている。

 珠光が茶の湯の開山であり、紹鴎が茶の湯の中興の祖、利休が茶の湯の大成者であることは万人の認めるところである。利休は、村田珠光の茶の湯の源流を探究し、茶の湯の法、その理念の純化と深化に努めた。つまり、珠光の侘茶精神を深め、草庵茶をもって茶の真髄としている。

 利休信楽と言われるものがある。これは利休が紹鴎や珠光が茶の湯の世界に取り上げたと同じように、信楽の焼き物の持つその雅趣と利休の茶の湯の精神とが合致したからである。そして、利休の好みを信楽の陶工に指図して茶道具を造らせた。これが利休信楽である。

 こうして信楽焼も、16世紀の中頃から、中世窯の3種であったすり鉢、甕、壷以外に、茶の湯の道具をも焼くようになっていく。それは、信楽焼きの持つ素朴さ、侘とさびの美を備えた信楽焼きが、茶の湯の精神と合致し、それまでの農雑器としての信楽と共に美術品としての信楽焼の面ももって行くことになる。

 1597年(慶長2年)豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、朝鮮(韓国を含む)の多くの陶工が連れて来られた。それら陶工が、有田焼、萩焼、薩摩焼その他多くの窯場を造った。それら陶工が日本に持ち来ったものに、登り窯がある。連房式登り窯は、それまでの穴窯に比べると非常に効率がよく、大きく且つ沢山の作品が一度に焼けるという合理的な窯だった。そのため、17世紀にはいると、全国の窯場に登り窯が築かれるようになって行った。

 信楽もその例外ではなく、17世紀にはいると穴窯は無くなり登り窯に代わって行った。そのご穴窯は信楽では見られなくなり、昭和40年頃からその復活が始まった。これに付いてはまた別の項で述べることにする。