広島で過ごした、たった二日間がすべてを説明するだろう:平和公園で見た、未だに骸
骨のような姿の建物:どこからともなく現れ、「祈りましょう」と英語で私に話しかけ
た、農婦の格好をした二人の天使:願いを込めた千羽鶴の山:岩に残った人間の影:溶
解して一塊りになってしまった硬貨:私の窯の中へ入れたように溶けている瓶:そして
ヒバクシャに聞いた話(硬貨や瓶や影の焼き付いた岩から数メートルのところに居て、
それでもあの原爆を生き残った人たち)。これら強烈に私の感情に訴えかけた出来事の
せいで、続いて起こったことがさらに重要な意味を持ったのだと思う。
私は薪窯で作陶している陶工たちのもとを訪れるために来日していた。前日までの強烈
な体験から逃れるように、備前焼の陶工の招待に一も二もなく飛んで行った。だが感情
と認識に起こった変化は尋常ではなく、簡単には以前の状態には戻らなかった。乗って
いる列車の車輪のたてるリズム、水田に沈んでゆく太陽の色、こもって澱んだ、じめじ
めした大気に絶え間なくうるさい虫、駅まで迎えに来てくれた、高原邦彦の車の後に巻
き上がる、幽霊のような砂ぼこり−その日の些細なことすべてが、岩に残った影のよう
に私の記憶に決して消えることなく焼き付いている。
私はお茶とお菓子の味も覚えている。と同時に寡黙な高原のためらい、苛立つ様子も。
この西洋人をどうしたものか? 友人のそのまた友人から頼まれたから訪問を承知した
だけで、彼は明らかに、私が陶工だということにさえ確信が持てないでいた。だが可塑
性を試そうと土に触れた瞬間、私は二人の間の溝が埋まったことを感じ取った。ちょっ
と轆轤でも回してみますか? ええもちろん! 私は三年ものの備前の土を円錐形にし
ながら、ライターで火をつける音を聞き、彼の顔の右側に立ち上る煙草の煙を見、安堵
のため息を聞き、彼が私の何たるかを認めて口をとがらせるのに気がついた。彼は「な
るほどこいつは陶工だ」と静かに独り言を言っていたと後で知った。安心した彼は私に
滞在をのばし、彼が十年間師事していた、兄の高原昌治の陶房を訪ねるよう勧めてくれ
た。彼の兄のところはくだけた、飾り気のない雰囲気に満ちていた。そこでもお茶とお
菓子をふるまわれた。仕上げのすんだ器や、個展の図録や、窯を見せてもらった。それ
からアメリカ原住民の陶芸について話をした。またお茶をご馳走になった。低い机に座
っていたので足が痺れてしまった。
私自身のそれまでの夢、情熱、限界についての考え方を永久に変えてしまった会話があ
ったのはその後だった。高原昌治に見てもらおうと、作品と写真をいくつか持参してい
た。彼の反応は驚くほど単刀直入で、通常の会話につきものの丁寧さや曖昧さといった
ものはそっちのけだった。彼は、私の量産品を見ても何も言わなかったが、薪窯の作品
を見て評価をはっきり口にした。通訳を通しての会話というややこしさはあったが、彼
がこう断言しているのがわかった。「素晴らしい。なぜこれだけを造らないのかね?
ここには生命(いのち)がある!」私は高原先生にわけを話した。「私は薪窯が好きで
す。できることなら薪だけでやってゆきたい。でも今関っているすべての事柄の意に添
うことはできないし、インディアナの北部では薪窯だけでは食べてゆけないのです。」
彼は私の言うことなど意にも介さぬように、率直に反論した。「さあて、」彼はアメリ
カ人の陶工を名指しして言った。「彼も君と同じような境遇だが、薪だけでやっている
。」
その日の他のことはあまり覚えていない。駅までどうやって行ったかもほとんど思い出
せない。(写真が残っているので駅へ行ったことは確かだ。)いつ広島に帰り着いたか
もわからない。
高原さんが言ったことを後でよくよく考えてみるのはなかなか複雑で、時間がかかった
。高原さんほどの陶工が私の作品を褒めてくれたということには満更でもなかったが、
一方で自分がすべきことを指図されたような気がして少々腹立たしくもあった。そして
、自分が本当にしたいことにもっと時間をかけることが出来るはずだという考えが引っ
かかって、というかその考えに少なくとも惹かれていた。もちろん私は自分のしたいこ
とはほとんどやっていた。しかしこの会話のおかげで、現実に存在する限界の中で、自
分の夢と情熱を真に追求する方法を思索し実行するにあたり、誤った、あるいは架空の
限界を本物のそれから見分けることができた。こんなことは今までなかった。いつも我
々の身近に転がっているそれらの問いに耳を貸すようにさせたのは、あのヒロシマに呼
び覚まされた感受性だったのだろうか? 私はそうだと思う。あの経験が、大事なこと
は何か、値打ちのあることとは何か、「生命(いのち)在る処」とは何かを考えさせた
のだと思う。私にはいくつかの体験が時間的に非常に接近して起こったことが有り難か
ったし、問いが今も絶え間なく、煩わしく、しかし親しげに問い続けられていることが
嬉しい。自分の夢と情熱をさらに十分に追い求めるということは、私にはそれらの何た
るかがわかっているということだ−それらは進化と変化の核心にある、まさに構成要素
なのだから、並大抵のことではない。高原の問いに答えようと真剣に取り組み始めて、
薪窯を生業とすることがその答だと初めて思った。私の小さな倒炎式薪窯は、24時間の
焼成で、表面に流れる灰がドラマと驚きを描き出す器を生み出した。焼成時間の短さか
ら、それらの作品はまた安らかで、なめらかで、静かな暖かみを呈していた。
しかし探究を始めた直後、「賭け金を引き上げた」者があった。ペンシルヴェニアの陶
工、ジャック・トロイの招きで私は初めての穴窯焼成を体験した。活気に満ちた4日間
の窯焚き:土が火の影響を受けて変化した造形:灰の流れ、滴り、溜まりから滲み出す
運動エネルギー−−これら全ての新しい体験で、夢を追求すれば自分の穴窯というとこ
ろに避け難く行き着くであろうと、私は確信した。
この新しい体験のヤマ場は二回あった。最初のそれはある日の午後、トロイが私に「保
留品」−彼が「まだ製品になっていない」というもの、を置いている棚の場所を教えて
くれた時だった。私はそこで、薪窯で横置き焼成された小さな器を見つけた。窯のごく
前の方に置かれていたが、大きな作品の陰になっていたらしかった。大きな器からの炎
が渦になって、その小さな器に大量の灰がかかっており、灰とガラスの入り混じった小
さな無数の流れが滝のように底の方へ流れ落ちていて、一房の熟れた葡萄のように、巨
大なガラスの滴りとなって底に垂れ下がっていた。窯焚きが終わってこの器がまっすぐ
に置かれたとき、このガラスの滴である「トンボの眼」は、重力をものともせず、空間
に向かって水平に突き出ていた。
二度目のヤマ場は、神崎紫峰の作品を見たときだった。神崎は信楽の陶工で、ほとんど
巨大な火袋だけと言ってもいいような、長さのかなり短い穴窯で焼いている。「火袋で
焼かれた器」という言葉からしばしば我々が連想するとおり、彼の器のほとんどに、裏
と表があった。松割り木で十日間焼かれた器の表面は、驚くべき複雑さを呈していた。
だが悲しいかな、私が「生命(いのち)在る処」の特質と方法論への洞察を得るに従い
、私自身の個人的な限界はより明白になってきた。私の地域がアメリカで最初に立派な
穴窯を持つ土地になるべく、近所の人たちが私と一緒に追求してくれるとは、私には思
えなかった。二十年間私の作品を買ってくれている人たちのことを考えたとき、彼らは
、私のスタイルがこれからも変わらないものと思ってくれている(私の審美眼は変化し
ていっても)という事実を認めないわけにはゆかなかった。また私は配偶者とその仕事
、子どもたち、家族の延長とも言うべき従業員たちと深く関わっており(関わり続けた
いと思っており)、抵当や銀行の話はしなかった。土地を買い、引っ越し、穴窯を築き
、この二十年間一緒にやってきたことをすべて無に帰するということができるか、とい
うことが現在の、現実の障碍であり、真に現実の限界だ、ということがすぐに明らかに
なった。
事態はもっと悪くなっていった(私の夢が、である。)。友人の井上丈太郎が送ってくれ
た愛知県立陶芸博物館開館記念展の美しい図録を見ていて、私は何カ月
もの間幾度となく、薪窯で焼成途中に落下した器の素晴らしい写真へと立ち戻った。炎
の模様が情熱的で、熱によって不格好に膨らんでいただけでなく、それが落下したこと
の証拠となる、曲線でできた灰の滴りと、最後に落ち着いた場所の記録となる傷や付着
物もそれら器には残っていたからである。
私は殆ど絶望していた。私の審美眼はより特化、純化されており、私は、それがもはや
か弱く、手の届かない域に達しているのではないかと訝り始めた。そしてそれに手が届
こうが届くまいが、そこへたどり着く手段にはとても手が届かなかった。
幸運にもシノ・コウタの文と出会ったのはこの頃だった:それは別の信楽の陶工、大谷
司朗についてのもので、大谷は自身の窯を持つことも自身の窯で焼くこともできず、や
むなく他人の窯の条件の悪い場所で焼いていた。そこは融けぬ灰が厚く積もったり、融
ける灰から信楽に特徴的な緑の釉ができるような、誰もが望むような場所では全然なか
った。大谷は臆せず、限界の中でやろうと決めた。彼の努力の結果は、シノが書いてい
るように、「人々の注目を集め、新たな流れとなった。火が当たらなかったため淡紅色
になった、緋色信楽の誕生である」。
この例に元気づけられた私は、どうすれば自身の限界(穴窯はない、十日間も焚けない
、器がドサッと落ちて横になるようなアクシデントもない)の中で、私が最も尊ぶ器の
質や特徴を具体化する器が造れるかを考え始めた。流行の旗手になりたいなどという野
望はなかったが、私は自分に問いかけた。「数もの向けの窯の設定−主に9番<摂氏12
80度>での釉薬ものの還元焼成という制約の中でやっていくことは可能か? 私を育み
、元気づけた器の特徴によって権限を与えられた器、しかもそれ自身完全な器を作るこ
とは可能か?」
それは困難であるが興味をそそる、複雑な問いだった。限界のなかでやるとは単にお金
や、場所や、仕事の保証や、9番での釉薬ものの焼成などという以上のことだった。ま
ずは土の使い方を吟味するということから始まった。私は長年、幾通りもの設定で横置
き焼成をしてきたということが、私の「発見」の一つであった:私は野焼きやサヤ焼成
、楽焼の殆どで横置き焼成をしていた。加えて、ここ数年透明釉をやってきたおかげで
、焼成を容易にする、取り外しできる一回きり使用の台や三脚の製作の必要性には慣れ
ていた。
これらを頭に入れれば、高原の問いに、釉薬を使った9番での横置き焼成で答を出そう
という試みも、自然な成り行きといえただろう。器は、炭素をよく捉える釉薬に浸す。
炭素を捉える釉薬
器はその後横にして、一回きり使用の三脚の上に置く。ふるいにかけた灰をふり足し、
溶剤か着色剤またはその両方で準備は完了。温度の上昇に伴い、溶剤は「上」の面から
流れ落ちる釉の小川を造り、ガラスの「指」が器を覆い、「底」の面で一つになり、ト
ンボの眼ができる。この横置き焼成において一種類だけの釉薬を用いるが、このごろで
は私はなおその上に、たった一つの土(磁器)を使うという制限を加えてみている。こ
れらの「横向き」の器は、通常はキャセロールや水差しやパイ皿と並べて9番で、釉薬
をかけて焼かれる。焼くたびにこの構想のもつ可能性の新しい発見がある。
横置き焼成の結果は工程を反映するものだが、いつも僅かにコントロールから外れてい
る。もし仮に全てをコントロールできたとしても、それよりも少し外れたほうが、ちょ
っぴりだがより魅力的だ。私は、この横置き焼成の工程は、「造る」以上に「与えられ
る」行為であると思う-と同様に、高原の問いに、一部答えたことになると思う。
そう、これらの器とこの工程は時の流れにどれほど耐えるかということを私は考えてい
る。他の人々にどう受け入れられるだろうか? 時が経てばどう感じるだろう? この
道は何処へ続くのか。他の面での発見はどんなものだろう? 私が五年後、十年後、二
十年後にこれらを見たら、どう思うだろう?
この表現法の不思議さと楽しみの一つは、好奇心を持って誠実にこれに近づこうとする
者すべてに発見の連続が待っていることだ。私としては、二十年後も今と同じく、問い
かけは興味を呼びつづけ、少なくとも今と同じくらい時々発見があって、答えは今と同
じくらいつかみどころがなければよいと思っている。その時もまだ「生命(いのち)在
る処」を探し続けていたい。
(c) ディック・レーマン、1997 著作権所有
(9番、還元)
ソーダ灰:16%
コナ F-4 長石:9%
ネフェリン・サイアナイト:39%
Cedar Heights Redart:6%
Edgar 塑性 Kaolin:17%
ケンタッキー・ボールクレー(OM 4):13%
計:100%
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