私の半生と陶歴


私の半生

著者:松山祐利

1) 修行時代と富本先生

私は昭和十三年に帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)工芸図案科に入学しました。そ して二年後には、富本憲吉先生の祖師谷のお宅にお伺いして、お仕事を拝見するようにな りました。つまり東洋美学や西洋哲学史、フランス文化や美術解剖学などの学科は大学で学び、 実習は富本家で、と決めていたのです。私が日曜の度に先生のお宅に通っておりますと、 ある日先生が、家に来い、家から学校に通ったらどうだ、とおっしゃってくださったので、 それからはお言葉に甘えて先生のお宅から通学しました。

草深い祖師谷の工房で、先生の工芸理論を聞きながら、ベルトのかかった手轆轤を私が廻し ます。先生の作業をみつめながら、止めたり、廻したり、そのタイミングの難しいこと、これ こそまさに阿吽の呼吸で、先生と一心同体になり、息がっぴったり合わないとうまくいか ないのです。どれほど神経をつかったことでしょうか。このように、先生と同じ生活環境 の中でともに作業をし、教えを乞うた内弟子というのはおそらく私一人ではないでしょう か。この時代は現在の動力轆轤はありませんでした。

2) 自然への目覚め

私の生まれ育った都城市は、三州平野の西方に霧島連峰望み、その中心には高千穂の峰が 聳えています。この地方は多くの神話に満ちたところです。そんな環境にあったせいか、 私は自然への憧憬が強く、子供の頃、母から与えられた書物の中の、古代ギリシャ建築や彫刻 を眺めても、自然を表現する芸術のすばらしさに心打たれたものです。富本先生は鋭い自 然観察、確かな写実性を繊細巧緻・絢爛豪華な独自な意匠へと昇華されましたが、私がこ だわるのはどうしてもしぜんの姿で、そのへんが先生の作陶とは異なるところです。先生 のお宅にお世話になること二年目、私は召集礼状を受け、故郷に戻りました。そして大東 亜戦争に突入、多くの戦友を失うなか私は無事生還することができ、東京へ戻り、大東亜 工学院の生徒指導員として敗戦の年まで頑張りました。それからは先生のもとを離れ、十 余年にわたる私の放浪時代が始まります。

3) 自己研鑚と放浪の日々

それからの私は全国の陶房を歴訪し、昭和二十二年には多治見で職人の世界を見て回った り、加藤幸兵衛先生のところにお世話になったりしました。それから、自然のしくみを理 論的に知りたいと思い、京都の国立陶磁器試験所で伝修生にもなりました。また、この期 間には、大学の土曜講座(市民に開放された講座)にも通って、いろいろな先生方のお話 も拝聴することが出来ました。さらに昭和二十五年には多治見の陶磁器試験所の研究生と なり、美濃の土について研究しました。
この間の決して短いとはいえない、研究・放浪生活を通じて、私のなかで土に向かう姿勢 のようなものが固まってくるのを感じました。時が熟した、とでもいうのでしょうか、自 分で自由に焼ける窯が欲しいと思いました。この頃から自分の土地を探し始め、多治見の 小名田から山越えして大萱、大平、久尻と歩き回って、くたびれたある日、ここ快遊山が 眼にとまったのです。

4) 釉薬を使わない自然釉

多治見で初めて窯を作った頃は石炭窯で、湯呑みや皿を作り、次に薪で焚く穴窯を知りま した。信楽や伊賀、備前の土にふれ、その不思議な自然の力に驚かされたのは事実です。 そのとき、土そのものをみながら、釉薬を使わずとも、ひとつの素材を極限まで活かすこ とが私の使命だと悟りました。土で抽象的なものを作るのではなく、生活を通して自然を 見つめることこそが私の希いなのです。私には、芸術・工芸作品を作ろうといった意気込 みはありません。茶碗を作るとき、志野の場合は模様をつけますが、それ以外は土そのも のを窯の中に入れるだけ、といってもいいでしょう。
作陶にあたっての私の出発点はまずそれが、花のためか、お茶のためか、ということです。 たとえば花入なら、花を挿すことを夢見ながら気合を入れ、花を生ける気持になって作り ます。花入は花が主役です。そして出来上がったものには必ず花を挿してその姿を眺める のですが、しばし花と共にある私の器が自然と語り合っているようなら、それは成功作と いえます。また、茶碗となるとまた話は別です。今度はこちらが主役ですが、それは点茶 という一連の運動のなかで生命を吹き返すものでもあるのです。

5) 禅の器  

  富本憲吉先生は、豪華絢爛な作品を創造されて、その生涯を送られました。 私は、長い旅の修りに近つき、自分の作品から装飾を全て取り去ってしまおうと決心しま した。それを「禅乃器」と名つけ、また炎を見つめながら無心になって、窯の焚口から薪 を投げ入れます。造るのではなく、生み出すのだと思います。「空」の中から新しい生命が 生まれて来ます。

松山祐利略年譜

大正 5年(1916) 6月4日、宮崎県都城市にて生まれる

昭和11年(1936) 宮崎県立都城中学校卒業
  13年(1938) 帝国美術学校(現武蔵野美術大学)
                       工芸図案科入学
  15年(1940) 都城西部第十七部隊に応召
  17年(1942) 召集解除
  19年(1944) 帝国美術学校工芸図案科卒業、在学中は 文化勲章受章・富本憲吉先生に内弟子と して師事             大東亜工学院生徒を指導   21年(1946) 愛媛県宇和島の陶器工場で指導   22年(1947) 多治見市で加藤幸兵衛先生に師事   24年(1949) 国立京都陶磁器試験所に研究生として入所   25年(1950) 岐阜県立多治見陶磁器試験場にて陶磁器製 法について研究   26年(1951) 多治見市高田にて土物の研究   27年(1952) 多治見市脇の島に築窯   28年(1953) 武蔵野美術大学教員養成科講師となる   30年(1955) 土岐市、快遊山に築窯   37年(1962)「毎日グラフ」(4月22日号)、毎日日活 ニュース映画で紹介される   38年(1963) NHK「秘境の人」で紹介される             アトリエ「日輪堂」を建てる   39年(1964) 11月、藤本昌子と結婚             新宿紀伊国屋書店画廊にて初個展   42年(1967) 土岐市美術作家連盟会長に就任   45年(1970) 岐阜聖徳学園女子短期大学講師となる             4月、祐子誕生   46年(1971) 美濃陶芸村基本構想計画に参画   50年(1975) 聖徳学園岐阜教育大学講師となる   51年(1976) サンフランシスコにて合同展、この間カリフォルニア地方の 幼児・児童絵画について研究   52年(1977) 岐阜聖徳学園女子短期大学教授となる             5月、祐子永眠    54年(1979)「松山祐利作品集」(啓佑社)刊行   55年(1980) 2月、土岐市政二十五周年にあたり美濃陶芸 研究開発に努力して文化振興に寄与した功績 により、土岐市文化功労者として表彰される   56年(1981) 滋賀国体の折、聖徳学園岐阜教育大学長・ 村松繁樹先生(元学習院大学教授で現天皇の 教授を務めた)より「松山祐利作品集」 「自然釉茶碗」「自然釉花入」が手渡しにて 昭和天皇に献上される   58年(1983) 長野県岡谷市立博物館にて回顧展開催   60年(1985) 高新画廊にて作陶展(高知新聞社・高知放送   後援)             京都、野村美術館にて茶陶展   62年(1987) 高新画廊にて作陶展(高知新聞社・高知放送   主催) 平成 2年(1990) 高新画廊にて作陶展(高知新聞社・高知放送 主催)             都城市文化賞芸術部門賞受賞 平成 2年(1990) 高知新聞社、高知放送主催にて作陶展 平成 2年(1990) 故郷、宮崎県都城市にて都城市文化賞 芸術部門賞受賞 平成 3年(1991) 東京松屋銀座店にて作陶展 平成 3年(1991) 表千家堀内宗完先生より茶室(月光庵)の庵 号を戴く 平成 4年(1992) CBC放送にて古田織部を紹介のための映画 (バサラの器)の撮影のため土岐市より依頼さ れ、自宅工房にてロケーション 陶器作成を 指導 平成 8年(1996) 二冊目作品集(禅の器)を東京の出版社求龍 堂より出版 平成 10年(1998) 岐阜県知事より伝統工芸部門で伝統文化の保 存継承に貢献した事により表彰される 平成 11年(1999) 岐阜県土岐市教育委員会より陶芸向上のため 研鑽を積み、後進の育成と文化芸術の振興に 寄与したことにより二宮文化賞を受賞 平成 11年(1999) 9月29日から10月29日まで「薪窯の世界」と 題して薪窯国際会議開催にあたりアメリカ・ アイオワ大学美術学部より招待され、渡米      その他 各デパート画廊等で発表する 岐阜県土岐市泉町快遊山 禅窯 松山祐利> (日月山人)