暇人・爺っつぁんの茶飲み話

まさか!

 本日2006年2月9日より、従来の禁煙日記を閉鎖し、ここに「暇人・爺っつぁんの茶飲み話」を始めることにしました。紫峰に書けるのは、過去の体験と、それに基づく紫峰の考えだけです。それをご承知の上でお読みいただければ‥‥。

 3日前の2月6日、ミゾレに煙る中を広島・生口島に向かっていた。一昔前は、三原港からフェリーに乗り、島に渡った。船旅は心にゆとりを与えてくれるが、時には欠航ということもある。


瀬戸内海には多くの島があり、尾道市の向かいの島が文字通り『向島』と呼ばれている。尾道を起点に『向島』『因島』『生口島』、その他多くの島々に橋を架け四国の今治に至る道のことを「しまなみ海道」と呼ばれている。文空上人の運転する車は、信楽を出発して5時間あまりで生口島に到着した。島には似つかわしくない広々とした道路ができていて、島の様相は大きく変わっていた。


駐車し、自動車を降りるとY子さんが迎えに出てきてくれた。庫裏から駐車した所までは相当の距離があるので、われわれの到着を待っていてくださったことがよくわかる。Y子さんの出迎えを受け、法然寺の山門をくぐった。久々のことだ。本堂に合掌し庫裏の玄関を入ろうとした時、引き戸が開いた。そこには紫峰の師僧・別府信空上人と奥さんの笑顔があった。挨拶もそこそこに、上人の先導で庫裏を通り、回廊を渡って本堂へ‥‥。広々とした庫裏にも、回廊にも、そして本堂にも赤々としたストーブが置かれていて、どこも暖かかった。早朝から各部屋を暖かくしていただいていたことが良くわかる。本堂には椅子も置かれていて、膝掛けもあった。私の足を気遣ってくださっているのだ。お上人の声と木魚に合わせてお念仏が始まった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏‥‥‥‥。涙が自然と溢れ出てくると同時に南無阿弥陀仏の声も嗚咽のように。文空上人に言わせると、途切れ途切れのお念仏。信空上人も‥‥。奥さんも入ってこられていたが、気付かなかった。このように、ここ法然寺の本堂でお念仏ができることを諦めた時もあった。2度とここには来られないだろう、そう思ったときもあった。

2004年9月頃から、歩くと足が痛みだし、一ヶ月で五足の靴を買い換えた。その頃から、クロード・ガニオン監督の「KAMATAKI」の映画の撮影が紫峰陶房で始まった。つかの間であっても、忙しさは痛みを忘れさせてくれた。この痛みは、靴擦れか爪水虫ではないかと思っていた。次第に痛みがひどくなって来る。自然治癒力を信じている者にとって、病院に行くことなど考えもしていなかった。しかし、痛みと、多くの人の薦めもあって、11月中旬、近所の病院へ行った。数回通ううち、糖尿病の合併症による「壊疽」との診断。その日から毎日、点滴と薬による治療が始まった。正月も休まずに点滴を受けた。しかし痛みは極限を超えていて、両足の指の先が黒く変わってきていて、両足のカガトも土踏まずの辺りから黒紫色に変わってきていた。12月下旬頃から、痛みのために夜も寝られなかった。痛み止めも効かないので、飲むのを止めた。医師は手術を2度3度勧めたが頑として断った。

昨年の2月20日、午前9時ごろ別府上人が見舞いに来てくださった。この頃、『紫峰は重態で回復の見込みはないらしい』、と言う噂が飛び交っていた。それを聞いた師僧が心配をして見舞ってくれたのだ。
その日も痛みの極限を味わっていた。そこへ家内の声。
「別府上人がお見舞いに‥‥。」
「悪いが今はお会いできない、と丁重にお断りしてくれ。」
痩せ細り、痛みでのたうっている姿を見てもらいたくなかった。しかし、ここで会えなければ、2度と会えないかも‥‥。そんな思いが胸を掻き毟った。そして、見えない上人に向かって手を合わせた。
しばらくして、ドイツ人の親友でホメオパシーの医者でもあるドクターE.W氏がドイツから駆けつけてくれた。別府上人に挨拶しただけで寝室に向かった彼を見て、上人は「彼は会えるのか?」と、不満だったらしい。しかし彼が医者だということを知り納得していただいた、と、家内が言っていた。

10時頃からホメオパシーの問診が始まった。ホメオパシーは患者の生き方や日常生活、考え方、性格等々で治療法が変わると言う。E.W氏は、神崎紫峰をヨーロッパやアメリカに紹介している人で、十分に知っているはずだ。なのに問診は6時間に及んだ。夕刻、今まで医者から貰っている薬を全てテーブルの上に置いた。その薬は、血行を良くし、毛細血管を広げ、化膿を止める薬、血圧を下げ、血糖値を下げる薬もあった。「それらを全て捨てることができるか」、と、聞かれたので、即座に全ての薬をゴミ箱に捨てた。そして聞いた。
「足を消毒するにはどうすれば?」
「水でもいいし、ぬるま湯に2−3%の天然塩を溶かして、そこに足を漬けてください」と。そしてレメディーという仁丹粒より小さいものを三粒飲むように言われた。ホメオパシーについてはまたの機会に譲ることにします。

その日の夕食後、家内が、「生き返ったわ」、と言ってくれた。そうかもしれない。ホメオパシーは自然治癒力を最大限に引き出す医療で、200年前にドイツで始まったと言う。
そういえば、今まで、自然治癒力を信奉していた紫峰が、心ならずも近代医学の門を叩いたところに間違いがあった。自分の信じていない物が体に効くわけがない。むしろ、自分の信念に反する治療を受けていることが、生きる気力を蝕んでいたのだ。その矛盾がE.W氏によって解消されたのだ。だから、その日の夕刻に、「生き返った」との言葉をかけられたのだろう。
それまで死んだようになっていた紫峰が、その3日後には車椅子に乗って藤竜也さんの窯焚きを見に窯場まで行っている。


その日を境に壊疽は回復に向かい、こうして当時は思いもつかなかった師僧・別府信空上人を訪問することができたのです。
思いもよらなかった法然寺でのお念仏。過去4度、今回を含めて5度目の涙の中のお念仏を体験させてもらった。そのいずれもが、歓喜と感謝のお念仏だった。今回も。
お念仏の後、奥座敷で始めて正式な挨拶を交わした。そこにも椅子が準備されていた。でも今は椅子無しでも座ることができる。楽しいひと時だった。帰り際、雪の降る中を奥さんとお上人が畑の大根を引き抜き車に積んでくださった。感謝!以外の言葉はない。

別府信空上人との出会いは、神崎紫峰著『炎の縁・人の縁』第6章「乞食坊主との奇妙な出会い」をご覧ください。
http://www.anagama.jp/Ja/book2/chap06.html

なお、ここに掲載の写真は阿頼耶文空上人の撮影です。
2006年02月09日(木)  No.1 (医者嫌いが病に::壊疽)

映画窯焚は一通のメールから始まった。

本日、文空さんのHPを見ていて次の一文に接した。

Yuriさんといえば…カナダで大活躍↓ご存知ですか?
http://www.from-montreal.com/people/042.html
文章も表紙写真も上手いっ!
「説明過多が浸透…」の言葉にイロイロいっぱい納得しましたよ〜ん

それで、ここに映画「KAMATAKI」の顛末を紹介させていただくことにしました。。その撮影状況の詳細は、暇人の画像掲示板の過去ログでご覧いただけますが、それを纏めたものとお考えください。
なお、既にご存知とは思いますが、この映画はカナダの映画監督・クロード・ガニオン監督によるもので、紫峰陶房をメインに信楽町で撮影され、第29回・モントリオール映画祭で5部門で受賞という快挙にいたるまでの詳細です。

2002/10/28


この日、一通のメールが来た。差出人の名前は知らない。メールの最後にはクロード ガニオンと書かれていた。
メールには、フランス系カナダ人で、映画を作っている人であることがが書かれていた。そして代表作に、『Keiko』があり、この作品で外国人としては史上初の日本監督協会新人賞を受賞。1987年には『ケニー』で、はモントリオール映画祭アメリカングランプリ受賞、 ベルリン映画祭ユネスコ賞受賞他、多くの賞を受賞し、全世界40か国以上で公開された。ことなどが書かれていた。
後日談になるが、映画をあまり見たことがない私には無関心なことだったが、多くの人はクロード ガニオン監督の映画をよく知っていた。
この前年に、奥田瑛二・桃井かおり・内藤剛志出演の「リバイバルブルース」を撮り終え、これらの方と次回作「アンクル・タクマ」を撮影したいとのことが書かれていた。
そのために、私に会いたいという。
私に焦点を絞ったのは、私の作品や生き方をインターネットで知り、ドキュメンタリー風の作品を創るガニオン氏の目に留まったことらしい。快諾の返信をしたことはいうまでもない。

2006年02月10日(金)  No.4 (映画::KAMATAKI(窯焚))

初対面・クロード・ガニオン監督と‥‥

2002年11月2日、クロード ガニオン氏が神崎紫峰のスタジオに来た。
この日は他に訪問者もなくゆっくり話をすることができた。彼は解りやすい英語でゆっくりと話された。


次回のクロード・ガニオン監督の作品として、‥‥‥。
(1)日本の伝統的な陶芸作品とそこに流れる日本文化、そしてそれを体現している陶芸作家・「TAKUMA」を描きたい。
(2)この作品については、過去数年間考えに考え、どうしても映像化したい、と、思い続けている。
(3)そこで、自分の考えている映画に登場する陶芸作品を捜し求めていた。当初は沖縄の陶器、そしてその他の作品を見て回ったが、ガニオン監督のイメージしている作品にめぐり合わなかった。そこで、インターネットで神崎紫峰のホームページにたどり着いた。そこに出ている作品を見たとき、これこそが自分の捜し求めていた作品だ、と、思った。
(4)そこでそのホームページに出ているすべての記事を読んで、神崎紫峰の人となりを知り、ぜひ会ってみたくなった。
(5)ガニオン監督の予定では、今月14日に成田空港からカナダに帰国し、来年の3月頃に来日し、2003年の秋(9月)頃から撮影を開始したい、と。
もしガニオン監督が紫峰に会ったあとも、紫峰の作品と紫峰個人に興味があるなら、協力させてもらうことを伝えた。
それは、私(神崎紫峰)も、ガニオン監督の純粋な映画に打ち込む姿に感銘を受け、映画の撮影にはでき得る限りの協力をしたい、と思ったからだ。そして今後のスケジュールや詳細についてはE_mailで連絡を取り合うことに決め、彼は紫峰陶房を後にされた。
2006年02月12日(日)  No.5 (映画::KAMATAKI(窯焚))

ある人からの電話。

3日前の夕食時、ある人から電話があった。「長い間お世話になりましたが、母が3日前の7日に亡くなりました。もう既に葬儀は済ませましたが、連絡が遅くなり申し訳ありません。母が寝たきりになって7年半でした。ありがとうございました。」彼の声は途切れ途切れだった。
「長い間後苦労さんでしたね。お母さんも皆さんに見守られて‥‥。あなたも奥さんもお疲れでしょうから、クタブレが出ないようにお気をつけください。またお参りさせていただきますので。」私の言葉も途切れた。

彼に始めて会ったのは平成元年のことだった。紫峰の著書「炎の声 土の声」「炎の縁 人の縁」を読んで以来、彼は紫峰のファンになったという。平成元年のある日彼は、5時間余りの距離をトラックを運転し紫峰陶房に来た。この著書にも書いているように、紫峰は長年ヒッピーのような生活をし、その日の食費にも事欠く日が続いていた。その貧困から脱し、ようやく今の陶房を建て、そこで生活を始めたのは、平成元年6月4日からのことだった。その新しく建った家に彼は来たのだ。
玄関を入って発した彼の第一声は、
「あの本に書かれているのは嘘なんですか?こんな家に住んでいるとは思わなかった。貰ってきた鶏小屋に住んでいると思ってきたのに。」と。
「嘘じゃありません。あの通りの生活をしていたんです。あの鶏小屋で一緒に生活していた弟子も居ますから嘘など書けませんよ。」
「今の時代にあのような生活をしている人が居ると思うと、居てもたっても居られず、少しでも生活の足しになればと思って、家で作っているものを持ってきたんですよ。」そう言って彼は数個のダンボールに一杯入った野菜を玄関に運び入れてくれた。以来彼とは兄弟のように親しくなり、家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている。

私が彼の家を訪問した時、「ぜひ会ってください」と言って、隣の部屋に通された。そこにはベッドが置かれていた。お母さんが寝ていたのだ。そのベッドの枕元には、お父さんが座っておられた。お母さんが私に向かって手を合わされた。そして何かを言われた。言葉がわからなかった。すると傍に居た彼の娘さんが「遠いところありがとうございます」と、言っています、と。彼女だけが彼のお母さんの言うことが分かると言う。

後日、彼の家を訪問したとき、同じようにお母さんの部屋を見舞った。その頃は、彼の奥さんはお母さんの看病をするために、仕事をやめ、看病に専念しておられた。その仕事を辞めるについては悩みに悩んだ挙句、先の著書を読んで決心したと言う。お母さんはお元気そうだったが寝たきりで、言葉も不自由だった。通訳(?)の娘さんも部屋に居てくれた。


お母さんは私に向かって手を合わせ、壁の上のほうを指差した。そこには数枚の写真が貼られていた。そして何かを言われた。即座に娘さんが、「この前先生と撮ってもらったあの写真を毎日見て、朝晩の挨拶をしています。」と。写真の中には娘さんがおばあさんの布団の中に入り添い寝している写真も目に入った。
そして食事になった。奥さんが言った。「仕事を辞めるまでの私は見栄っ張りで、このような食事をお客さんに出せなかったのですが、先生の言われる「ありのまま」と言うお言葉で仕事を辞める決心がつき、どなたが来られても慌てることがなくなりました。ありがとうございました。」そのような話をしている時、まだ食事が終わっていないのに娘さんが立ち上がって、「おばあちゃんが寂しがりますので、おばあちゃんの傍に行って、おばあちゃんが寝るまで添い寝をしてきます。」と言って部屋を出て行った。

これほど幸せな家庭を見たことがない。家族全員で、体の不自由な彼のお母さんを支え続けられた。いつお伺いしても、笑みがこぼれ、心が温められる。これほど幸せな最期を送られた方も居ないのではないかと。ご冥福を祈ります。
2006年02月13日(月)  No.6 (日記)

63歳ローディーの誕生!

2003年の晩秋、たまたまオークションサイトにアクセスしたところ、26インチのマウンテンバイクがそこに出品されていた。冗談のつもりで14000円の入札をしたところ、その自転車が落札された。そして大きな箱に入った完成車が送られてきた。早速自転車を調整して5キロあまりを試乗してみたところ、息も絶え絶え。毎日1万2千歩ほどの散歩をしているのにこのていたらく。散歩と自転車では使う筋肉が全く異なるらしい。紫峰陶房は、100メートルほどのなだらかな坂の上にあるが、その坂も登ることはできなかった。入札の動機は衝動的なものだったが、試乗後運動不足を痛感し、これを機会に自転車に乗ることを心に決めた。それ以来壊疽に罹るまでの一年間ほど雨の日以外は毎日10数キロをマウンテンバイクで走り回っていた。結果は直ぐに出るもので、陶房への坂道も、隣村までの峠も苦もなく登れるようになっていた。ところが、2004年末に壊疽に罹り、以来自転車にも乗れなかったが、昨年、2005年の9月末から再度自転車に乗りはじめた。一年間の運動不足はてきめんで、軽く越えていた峠を越えるのに2度、3度、休まねばならない。


10月になり、少しでも自転車が軽く走るようにするにはどうするかを考えた。それでタイヤをスリックタイヤに替えれば少しは軽くなるかも、と、思い 草津市にある Dio World へ行った。そこに展示してあったのが SPECIALIZED SIRRUS 2006年モデルと GIANT OCR3 2006年モデル。どちらも恵比寿にとっては魅力ある車種。見ているうちにタイヤの購入を忘れGIANT OCR3に見とれていた。レーサー初級用のこのバイクならクロスバイクの代わりにもなるかも、と思って即決した。
翌日はバイクの調整。サドルの位置と高さやハンドル位置の変更。付属品は以前から使っているサドルバックに交換用のチュウーブや携帯用工具を入れて取り付けた。他にはサイクルコンピューター(ケイデンス付)と携帯空気入れ、それにボトルホルダーを取り付けた。勿論バックミラーも。その翌日からロードバイクで隣村へ。およそ10キロ余り。峠もマウンテンバイクより軽く登れる。毎日乗るうちにロードバイクに魅せられていく。まだGIANTに乗り始めて間もないのに、それより軽いバイクが欲しくなった。


カタログの宣伝文句に誘われてFELTのF55に決定した。注文して1週間ほどで届いた。GIANTの重量は10キロ余りだがFELTのそれは8キロ余り。2キロの重量差は大きい。以来毎日FELTを乗り回していたが、昨年の年末は寒波の襲来で自転車に乗る雰囲気ではなくなった。それで室内で運動ができるようにローラーを購入して運動兼練習をしていた。ロードバイクに乗り始めた頃は、乗り方そのものを知らず、ペダルには負荷をかけて回すほうが良いと思っていた。ところがネットで知り合っていた女性の方ら、爺っつぁんがロードバイクに乗り出したのを知り「今中大介のロードバイクの基本」を送ってくれた。その本を読んで初めてペダルの回転数は1分間90回転が基本であることを知った。90回転は考えられないほどの早さだった。その回転数を維持できるようにローラを使ってトレーニングをしている。


また、2006年の年頭の目標の一つに「今年の秋には琵琶湖一周をしたい」というのがあった。FELTに乗り出してから、GIANTをトラベル用にしようと思っていたので、琵琶湖一周のためにまずタイヤの交換から始めた。当初からついていた 700 25c から 700 28c のマラソンを付けた。そしてこのGIANTをローラー台に乗せて自転車をこいでいて、ハンドルバーについている補助ブレーキの角度が合っていないことに気付いた。


それで、バーテープを外し、角度の調整をした。そのほかに、リヤキャリヤーを取り付け、センタースタンドも付け、トラベル用自転車に日々変わってきている。一番上の写真でわかって思えることでしょう。
総距離数200キロメートルほどの琵琶湖一周をぜひ実現させたいのと、先日行った「しまなみ海道」もぜひ自転車で走ってみたい。これを無事走りきるためには、まだまだ基礎体力をつける必要があることは自覚している。
63歳の爺っぁんがヘルメットを着けて、ドロップハンドルのロードバイクに乗っている姿を見て笑わないように!壊疽で生まれ変わったこの爺っぁん、孫より若いまだ一歳ですから(笑)
2006年02月15日(水)  No.7 (趣味::自転車ツーリング)

クロード・ガニオン氏、再来訪!

映画「KAMATAKI」はモントリオール映画祭で5部門での受賞と言う快挙だった。その後、数多くの映画祭に招待されている。
1月5日から:パーム・スプリング映画祭(ロスの東,砂漠の中の保養地で、マット君も行きました。)
2月9日から:ベルリン映画祭、キンダー部門コンペティション(「ケニー」でおなじみの映画祭)
ガニオン監督は、2月16日、ベルリンから直接バンコクへ行かれました。
2月17日から:バンコック映画祭に招待されているからです。
このあたりの詳細は、プロデューサーから詳細な報告が画像掲示板にあることでしょう。

さて、映画「KAMATAKI」のために初めてガニオン監督が紫峰陶房を訪ねられたのは2002年11月2日でした。その翌日。
2002年11月3日
クロード・ガニオン氏より再びメールがあった。
昨日会ったことへのお礼と感想が書かれていた。
そして東京へ出発する前にもう一度会いたいこと、そしてスタッフやその他の参考のためにホームビデオで紫峰のスタジオを撮影したい、と。夕刻7時ごろに電話をするので都合を聞かせてほしいと書かれていた。約束通り7時に電話があった。

翌日の4日は、ミネアポリス美術館の学芸員・M.W.氏が来山することになっていた。午前中に来るということだったが、紫峰にとっては大事な話だったので、何時までかかるかわからなかった。そこで、午後4時ごろに、ガニオンさんに会える、と申し入れ、翌日の午後4時に会うことになった。

2002年11月4日
クロード・ガニオン氏が来た時、ミネアポリス美術館の学芸員・MW氏と紫峰作品巡回展の話をしている時だった。予定では2006年か2007年からミネアポリス美術館を皮切りにアメリカ全土の10美術館で巡回展をする、というものだった。その話がほとんど終わったとき、ガニオン氏が来られた。
MW氏とガニオン氏は初対面だったが、MW氏がガニオン氏の映画を見ていたこともあり、話は弾んだ。その話の中で、MW氏から、「展示会の折、神崎紫峰のドキュメンタリーがあれば‥‥。」と、言われたが、ガニオン氏の即答はなかった。

私とガニオン氏は、粘土の話し、作陶の話、窯焚の話などをした。そして、次回の窯焚きは12月中旬からの予定であることを‥‥。
クロード・ガニオン氏は即座に、「今月の14日にカナダに帰り、来年3月に来日する予定でした。しかし、もし了解を得られるなら、次回の窯焚きの手伝いをさせていただけませんか?窯出しが1月6日だということですので、それまで信楽に滞在します。その間、先生の作陶されるところを見せてもらったり、薪を割ったり、窯焚きをさせてください。もうすぐ家内のユリと義理の母が来ますので、ユリにもこのまま滞在することを話してみます。」と、言うことだった。

奥さんが来られ、ガニオン氏はカナダに帰らないで、このまま信楽に滞在する予定だと‥‥。それを聞いたユリさんは驚いておられたが、即座に了承された。私はユリさんに、私の著書「炎の声 土の声」「炎の縁 人の縁」を差し上げた。
ガニオン氏は14日から再び来ることを約して戻られた。

その後、ミネアポリス美術館のMW氏と話が弾み、京都のホテルまで送っていった。ホテルに着いたのは深夜の1時になっていた。





左の写真は、ミネアポリス美術館のアジア、日本美術展示室です。一番奥にある大壷は、神崎紫峰が見出した過去になかった肌の作品です。名付けて「瀑布窯変」
2006年02月17日(金)  No.12 (映画::KAMATAKI(窯焚))

カナダで公開!ベルリン映画祭で受賞!

このKAMATAKI窯焚日記は、既に「暇人の画像掲示板」で報告済みですが、このブログでのKAMATAKIの経過の正確さを期すために、再掲載したことをご了承の程。

速報!!
6時半頃のNHKニュースで、
”ベルリン映画祭にて「審査員特別賞」を受賞した”
との報道がありました。いずれ詳しくはカナダからの報告があると思いますが、速報としてお知らせします。
速報直後、メールをチェックしたところ、カナダからメールが届いていました。

ZUNO Film in Canada からのメール。


Subject: Good ニュースです。KAMATAKI窯焚、特別賞!!!!!

2月9日から始まった第56回ベルリン国際映画祭のキンダー部門「キンダーフェスト14プラス」で450本の応募作品の中から9本が選ばれ映画祭期間中に3回上映されました。我々も映画際からの招待で出席いたしました。この部門は児童部門より独立して、青少年対象にした作品を選び、また青少年による審査が行われます。いずれの回も観客は90%は大人、後はヤングで会場は埋め尽くされ、上映後には大きな拍手がありました。そのあとQ & A 質疑応答が途切れる事無く続き、ベルリンの街にKAMATAKIの赤いポスターが目立ちました。KAMATAKIとは何?の質問も多くあり信楽焼きへの大きな興味が生まれたことと思います。

会期中世界中の人から声をかけられとてもプジティブな感想を聞く事が出来ました。そして本日キンダーフェスの最終日、「KAMATAKI窯焚」が審査員による特別賞をいただきました。カンヌに次ぐ世界2大映画祭ベルリンで評価されるのは大変名誉なことです。ガニオンはこの映画祭に出品するのは「ケニー」を含めてこれで4回目です。授賞式には主演のマット・スマイリーが参加、監督は既に次の映画祭バンコックに向けて旅立ちました。またバンコックでの反響も近日中に御知らせいたします。






3月3日よりモントリオール市内の各映画館(Quartier Latin, Beaubien, St-Foy, AMC, Rock Forest)にて上映開始予定。
2006年02月19日(日)  No.13 (映画::KAMATAKI(窯焚))

ありゃ??まだ記事がない!

いま気が付いたのですが、一つだけ書き込んでいないカテゴリーがありました。それは紫峰の本業のカテゴリーです。(笑)
いざ本業のことを書こうとすると、なにを書けばいいのか‥‥。このホームページに来ていただいている半分以上の方は、穴窯や陶芸に興味があり、また、さまざまな事を知りたいと思っている方でしょう(あくまで推測ですが)。と言うのは、多くの方からさまざまな質問のメールを受けるからです。そのメールを受けた直後には、なるほど、このようなことが知りたいのか、と思うのですが、時間と共にそれも忘れてしまいます。何故かを考えてみました。
答えは簡単で、本業に関することは、自然と体が動いていて、何故そのように動いているのか、そのように動けばどのようになるのか、等々について全く考えていないのです。言葉を換えれば、呼吸をするのに何も考えていないのと同じなのです。
それと共に、答えるべき言葉が見つからないことも多々あります。
例えば、‥‥。
質問:土はどのような土を使ってますか?
答え:????あそこの土小屋にあるので見てください。
質問:これは何と言う土ですか?
答え:????どこにも売っていないので、何と言うのでしょう?
質問:信楽は砂が入っていますが、その大きさは?
答え:掘ったままの土で、その中に小石(砂)が入っていて、そのまま使いますの
   で、大きさと言われても‥‥。あそこの土小屋の土を見てください。
質問:土の成分は?
答え:成分はわかりません。あの土を使っているだけですから。
質問:それではあの土の塊に水を加えて粘土にされるのですね?その量は?つまり
   粘土の柔らかさはどの程度ですか?
答え:耳たぶぐらいと言う人も居ますが、私はもう少し固いのが好きです。これも
   使っている土を見ていただくほかありませんが。
この受け答えを聞いて、不親切だと言う人も居ますが、私としてはこれ以上のことが言えないのです。
つまりは、全て体験に基づいて土の良し悪しや穴窯に向く土かどうか等々を決めているので、これがこうだから、と言う説明ができないことが多いのです。

数日前にもドイツのプロの陶工で穴窯を実際に焚いている方からメールが来ました。そのメールには、
”何しろ実際に見せてもらわないことには私の疑問が解決しないことがわかりました。ですから、まだ創ってられる頃に信楽に着き、数日作陶されているところを見せて欲しい。勿論窯詰めも体験させて欲しいし窯焚きもさせて欲しい。窯出しも見せていただいてその後帰国します。」と言うものだった。私は彼を受け入れることにした。
紫峰陶房の窯焚きにはいつも外国から陶工が手伝いに来てくれます。今回の窯焚き(4月中旬からの)にも外国からの窯焚き希望者がいて、信楽に来ることになっています。いつもたくさんの希望者がいますが、「体験しかない」ことを実感している人に限って、その中から手伝ってもらう人を決めているのです。なおこの写真はカナダの陶工リーさんです。

でも、言葉に出来ることはできるだけこのページに書いていこうと思っています。ですから、もし陶芸に関してご質問があれば、コメントにお書きください。機会を見てできるだけお答えいたしますので。
2006年02月21日(火)  No.14 (穴窯)

コーネル大学々生来山!

昨日の昼食後、12名の外国の方が紫峰陶房に来た。アメリカ、アイオワ州コーネル大学の教授と学生、それに私の友人で、コーネル大学を卒業しその後アイオワ大学大学院を卒業した川崎君だ。この大学からは一年おきに日本に来、信楽でホームステイをして、京都、奈良それに備前方面にまでの観光をしている。引率者のダグ・ハンソン教授は今回で3度目の来山で、日本びいきの一人だ。ほとんどの学生が日本文化に興味を持っていて、紫峰陶房に来ての第一声は、「あの魚には何か意味があるのですか?」と、囲炉裏の上にかかる自在鍵を指差しての質問だった。自在鍵にはさまざまな意味がありますが、横木の彫刻の違いによってその意味も異なるようです。紫峰陶房には大きな鯉の自在鍵がかかっています。ですから、鯉の自在鍵について紫峰の考えを話しました。


「日本の囲炉裏には神が住むと考えられています。つまり、火は我々にとって最も大事なもので、それを神と崇めることによって、粗末な扱いをしない、と考えられたのでしょう。そして、自在鍵に取り付けられた鯉もまた神と考えられたようです。鯉は竜に変じると考えられていました。中国の故事でも「鯉は竜門という黄河上流の急流を登りきると龍になる」といわれています。ですから、神聖な火を燃やす囲炉裏から立ち上る煙に乗って、鯉は龍に変じて天空に上っていき、再び鯉となってその家に戻ってくる。その時、龍に変じた鯉は幸せをその家に持ち帰る。つまりは人間世界と神をつなぐ役目を果たすのが鯉で、それはとりもなおさず神そのものなのです。ですから、囲炉裏の自在鍵の上には天蓋が掛かっているのです。」これは紫峰の考えで、もし他の考えをもっておられれば、お教え願います。

その後、不動明王についての質問がありました。「不動明王も神と聞いているのですが、片方の歯は上に向きもう片方の歯は下を向いています。そして目がつり上がり、恐ろしい顔をしていますが、あのような表情をしている理由を教えてください」と。なんでも信楽の玉桂寺で見たらしい。仏教の面から答えると、その説明の説明が必要なので、文化の異なるアメリカ人に解るように説明するにはどうしたら良いか一瞬戸惑った。が、学生が答えを待っている。そこで、

「あなたがこれから行こうとしている道が左右に分かれている。左へ行けば道が行き止りになっていて、人ひとりが歩くとその道は確実に崩れ落ちる。死は間違いない。右に行けば、道は平坦で、行こうと思っているところへ間違いなく行ける。その分かれ道に立て札があり、左近道、右危険、と、書かれているとする。あなたは迷いもなく左を選んだ。そして一歩踏み出そうとした時、あなたの母親がそちらは危ないから右に行きなさい、と言ったとする。あなたは立て札を信じ、左に行こうとする。あなたのお母さんの顔は、いつものお母さんの顔でなく、鬼のように怒り狂った表情であなたが左に行くのを止めようとする。お母さんは、左の道が危険だと言うことを知っているのだ。お母さんは我が子を死の危険に晒したくないので、命がけであなたを助けようとする。お母さんの顔は鬼のような顔だけど、心はあなたに対して愛情があふれている。このお母さんが、不動明王なのです。」と、説明した。(ここを読んでいただいているお坊さん!日本人向けに仏教的な説明をお願いします。)

その後、いつものように穴窯作品や焼き方等、話が弾んだ。このコーネル大学には穴窯はなくガス窯を使っているので、自然釉や、穴窯そのものが珍しいらしい。それでアメリカの紫峰・ビーマー窯の掲載されているアメリカ陶芸専門誌、セラミック・マンスリーでカール・ビーマーの作品が特集として紹介されているので、その雑誌を見せて説明した。
2006年02月23日(木)  No.17 (文化)

映画監督・クロード・ガニオン氏は約束どおり‥‥。

映画「KAMATAKI 窯焚」が、ベルリン映画祭で特別賞を受賞し、受賞式には主役のマット・スマイリー氏が参加し、クロード・ガニオン氏は一足早くベルリンからバンコク国際映画祭に直行しまた。そして、2月23日カナダに帰国し、翌日には雑誌社の取材を受けると言う強行軍です。この詳細は、暇人の画像掲示板でご覧ください。この前の2006年02月17日(金)付け「クロード・ガニオン氏再来訪!」の後のお話をさせていただきます。

ガニオン氏は約束どおり2002年11月14日に紫峰陶房に来られた。窯焚きまでひと月ほどあるが、それまでに作品を創ったり、窯の道具を作ったり、窯の準備をしたりと忙しい。ガニオン氏は弟子と同じように、気持ちよく手伝ってくれた。そしてそれらの様子を全てビデオに撮っておられた。カナダに戻り、撮影スタッフや映画関係者に見せるためらしい。彼は信楽ペンションに泊まり、そこから車で通っていた。夜まで窯で手伝いをし、夜ペンションに戻ってからシナリオを書いていたという。ガニオン氏の予定では、窯開けの1月6日まで信楽に滞在するという。

窯詰めをしている時、台湾で穴窯と登り窯を焚いているという作家が、勉強のために窯焚きの手伝いに来た。窯詰めは窯焚きと同じほど難しいもので、窯詰めができれば窯焚きはほぼできたと言ってよい。3日間で窯詰めが終わり、窯焚きが始まった。初めはこの写真のように風呂を炊いているようなもので、静かで暖かな感じだ。

窯に火を入れて2日後になると、炎は激しくなり、熱さから痛さに変わっていく。ガニオン氏も弟子と同じようにシフトに入ってもらい、決まった時間に窯を焚いてもらった。彼は優秀な弟子のように、一つ一つをマスターしていった。また、重要なところはノートにとり、夜部屋に戻ると、ビデオの整理、シナリオ書き、その日の窯焚きの整理、と、寝る間もないほどの働きぶりだった。
そのような彼を見て、「これほど真剣に窯焚きをし、その体験に基づいて映画を創った監督はいるのだろうか?私の知る範囲ではいない。このガニオン氏の窯と取り組む姿勢は、必ずや素晴らしい映画を創られるだろう。それには紫峰窯全員が、ガニオン氏の映画制作には全面的な応援をさせてもらおう。」私はそう決心した。
窯焚きが終わり、翌年の1月5日、窯出しをした。ガニオン氏は大興奮だった。そして翌日カナダに戻られた。3月に再会すること誓って。
2006年02月25日(土)  No.18 (映画::KAMATAKI(窯焚))

ビジタリアンに変身!

それは、先月の1月18日、突然のことだった。私は家内に言った。
「今日からは野菜だけの食事にするから」と。
「またですか?」と言うのが返事だった。
以前にもビジタリアンになったことはある。その時と今回はちょっと違っている。今から15年程前には、突然肉魚類を受け付けなくなた。体が受け付けなかったのだ。受け付けないと言うのは困ったもので、当時は自分でも困惑した。百貨店での個展などのとき、会期中に美術部長クラスの方が食事に招待してくれる。そのような時、ビジタリアンなので普通のものが食べられません、と断ることになった。それでもビジタリアン向きのものを料理するレストランを探して、会食することは多かった。でも自分の気持ちとしては、迷惑をかけたという負い目が残った。


その前にもある特定のものが食べられない期間が10年を超えるものがあった。それは天麩羅だった。40年ほど前、大阪でひとり住まいをしている頃のことだった。小さなアパートの隣の夫婦が、近くの市場で天麩羅屋をやっていた。朝店に行くとき、その日の注文を聞きに来る。天麩羅屋だから勿論天麩羅を注文する。材料が異なるだけだ。だから、毎日天麩羅を食べていた。1年半ほど過ぎた頃、その日も突然やってきた。今まであれほど好きだった天麩羅のにおいが耐えられなくなったのだ。天麩羅油のにおいがするだけで、むかついてくるのだ。以来10数年、天麩羅と聞くだけでも、気分が悪くなった。今は天麩羅も食べることができる。これは、同じものを食べ続けた結果起こったことで、他の拒絶とは意味が異なる。

今回はこれと言った理由はない。ホメオパシーの医師がビジタリアンではないが、野菜中心の食事をしていることが一つの理由かもしれない。野菜が体に良い、とは聞いていたが、前回のように肉、魚、天麩羅拒絶症ではないので、菜食に変える理由はなかった。今までの食事で、血糖値も正常になったし、血圧も正常値だ。
ところが先月の18日、あることを思い出した。昭和20年代のことで、私はまだ小学校に通っている頃だった。季節は初夏になっているのにある人が雉を持ってきてくれた。当時にすればすごいご馳走だ。その夜はすき焼きをすることになった。鍋奉行は勿論父親だ。家族全員、生唾を飲んで炊き上がるのを待っていた。全員の目は鍋に向かっていた。炊き上がるにつれ、今まで嗅いだことのない臭いがしてきた。そして、鍋の中には泡がブクブクと吹き上がってきていた。誰も箸をつけようとしなかった。まだ食べ物の不足している頃だったが、誰も箸を出さない。父親が言った、「これは食べられん。ほかそ」と。誰にも異存はなかった。

寒い間は、雉は植物で生活している。だから、猟期は冬に限られる。つまり動物食をしていない雉はおいしいのだ。これには何か意味があるように思う。それで、突然野菜中心の食事をすることになった。朝は、胡桃やクコ、乾燥納豆、アーモンド、等々10種類近い種子とライ麦を中心に焼き上げたノルウェー産のブレッドを食べ、野菜ジュースを飲むことにしている。昼食と夕食は野菜の炊いた物が中心だ。食事と食事の間には生野菜を中心にしたジュースを飲むことにしている。これで、血糖値も血圧も正常値で、壊疽で痩せ細った体重も徐々に回復してきている。
そして現在、体調もすこぶる良く、ビジタリアンになって良かった、というのが今の感想です。
2006年02月27日(月)  No.20 (日記)

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