暇人・爺っつぁんの茶飲み話

自転車事故。前転、落車。

この原稿は、事故後40日頃に書いていたもので、公開するのを忘れていた。それに気付いてから読み直してみて、これを公開するか否か迷ったが、自転車愛好者への反面教師として読んでもらうことにした。

この痛々しい顔を見てもらいたい。ちょっとした油断が、このような結果になる。今年のゴールデンウイークの5月5日、この事故は起こった、と言うよりも、このような事故を起こしてしまった。
爺っつぁんは、いつものように陶房を出発し、中野、朝宮、宮尻、桶井、そして信楽との境界線の向こう側、大津市・納所まで走り、そこから旧道を回りこんで、桶井に戻る。その桶井に、無農薬のお茶を栽培、販売している”古香園”がある。そこで、緑茶を500グラム、ほうじ茶を500グラム買った。お茶の1キロと言うと少し嵩張るので、ポリ袋で2個の荷物にした。それをたすき掛けにして、フロントキャリヤに掛けた。前輪に食い込まないか、一応のチェックはした。その時は大丈夫、との判断だった。時間は9時を過ぎていた。

好きなお茶も手に入り、るんるん気分で帰途についた。国道422号から307号線に入り、朝宮の坂を登り切って下りに入った。この下り坂では普段は時速40キロを越える。爺っつぁんの住んでいる村の隣村、中野まで来たところ、連休で渋滞が始まっていた。爺っつぁんもスピードを落として車道の左端を走っていたが、危険を感じてきたので、中野に入ったところの喫茶店の手前を旧道に左折した。左折してすぐ、およそ20メートルほどの所に、暗渠がある。いつもその暗渠を、前輪をポン、と引き上げて、飛び越している。その日も同じように、前輪を引き上げ、いつものように飛び越した、と思った刹那、爺っつぁんの身体は宙を舞い、頭のほうから地面に‥‥。勿論爺っつぁんには何が起こったのか分からなかった。
倒れた身体を起こして自転車を見た。すると、フロントキャリヤに掛けたお茶の袋の片方が、前輪に食い込んでいた。そして、周りを見ると、いつも右ハンドルのエンドキャップの所に取り付けているバックミラーが落ちていた。拾い上げて顔を見たところ、上の写真のように、左頬に擦り傷が2箇所見え、他は大丈夫そうだった。手は、手袋をしていたが、擦り傷があちこちに。家に電話して迎えに来てもらい、傷の手当てをしていた。すると、左下の顎鬚の中から、血がポタリポタリ。唇も切れていた。切り傷ぐらいは大丈夫、と思っていたら、顔全体が腫れ上がってきた。ことに右頬の腫れがひどい。それを見て、家内が甲賀病院に電話。休日だが直ぐに来てください、と言うので、病院へ。

爺っつぁんは病院は嫌いなので、整骨医へ、と家内に言ったのに‥‥。その日の当直医は脳外科の医師だった。診察の前に、爺っつぁんには医師に言っておかねばならないことがある。それは、爺っつぁんの主治医はドイツのホメオパシーの医者であることを。ホメオパシーは、近代的な薬を嫌う。だから、薬の投与、注射をしないようにお願いした。
その医師は気持ちよく、爺っつぁんの言うことを聞いてくれた。そして、先ずレントゲンとCTスキャンを受けるように言われ、隣室に移動した。すべてが終わり、待合室で待っていると呼び出しがあった。
ビューアーには既に何枚もの写真が貼られていた。その一枚一枚を見ながら詳しい説明をしてくれた。脳には異常がないこと、右頬の骨が大きく割れていること、左顎骨にひびが入っていること、そして左顔面の骨の陥没があること等々。
そして、「これ以上は自分の専門外なので、今、休暇中の口腔歯科医に電話を入れたので、暫く待合室で待ってください。」とのことだった。待合室で待っている間も、左顎鬚の所から血がポタリポタリ、と。
およそ15分ほど経過した頃、歯科の診療室から声がかかった。爺っつぁんと家内が中に入ると、
「ちょっとひどい骨折ですので、今日から入院していただけますか? 今日明日は医師が揃っていませんので、明後日の7日に医師全員で話し合い、手術をするかどうかの決定をさせていただきます。」と。
爺っつぁんは即座に返事をした。
「入院はちょっと困るのですが。私は実はホメオパシーの‥‥」と、言ったところで、医師が、「今日の当直医から聞いています。ただ、口を動かすことは避けたいので、食べ物を食べることが出来ません。その代わりに点滴で栄養分を入れるだけですから‥‥。」
「絶対安静にして、口を動かしませんから、今日は帰らせてください。流動食で済ませますから。」、と爺っつぁんは言った。医師は、「それほど言われるなら‥‥。」と、帰宅を許された。その間、傷口の手当てをしてくれていた。左下あご髭の所は、相当深かったらしく、9針、左下唇は1針、縫ってくれた。そして、消毒薬も塗らずに縫い付けた以外の所の一部にガーゼを当ててくれた。そして、痛み止め3日分と抗生物質の飲み薬三日分を渡してくれた。医師いわく、「この薬は飲んでも飲まなくても結構ですから。」、と。
左の頬を打っているのに何故右の頬骨が割れたのかを聞いてみた。すると、医師が言ったのは、入れ歯がプロテクタになって、左からの衝撃を入れ歯で受け止め、その結果、左頬からの力で右頬の骨が折れたようです。と。確かに上の入れ歯は割れ、入れ歯の歯も抜けていた。
家内が診察室で注意事項を聞いたり、次の診察の予約をしたりしている間、爺っつぁんは廊下の待合で座って待っていた。ところが、爺っつぁんの前を通る人の殆どが、爺っつぁんを覗き込むように通り過ぎていく。
それで家内が出てきたので、「みんな覗き込んで行くんやけど、何か付いてるか?」と、聞いた所、「首吊りの失敗や、と思ったんじゃない?」、と。

その日の昼過ぎ、家に戻った。そして直ぐに昼食の時間だ。全てをジュースのようにしてくれた。結果、水のような食事は20日間続いた。気になっていた首吊りの失敗の言葉を思い出し、鏡を見た。爺っつぁんは安全のためにヘルメットをかぶっている。そのヘルメットの紐痕が3本首筋にくっきりと付いている。内出血しているので、赤紫色の紐痕だ。もし爺っつぁんがこんな紐痕をつけた人を見れば、首吊りを連想しただろう。

そして約束の7日の8時半、病院へ行った。担当医は、少し年配の医師と共に爺っつぁんを診てくれた。そして、「思っていたよりは結果は良いので、手術は今日の所は見合わせましょう」と、二人の医師が言ってくれた。そして、「もし何か異常があれば、口の中から手術をしますので、その時には抗生物質が必要ですから。」と。そして1ヵ月後の6月11日の予約をして帰してもらった。

6月11日、再度病院へ行った。爺っつぁんを診て医師は驚いた。「神崎さんのお年なら、最低2ヶ月から3ヶ月はかかる、と思っていましたが、ほぼ付いていますね。」と。それでレントゲンも撮らずに診察は終わった。最後に、これからは硬いものも食べる訓練をしてください、と言われたが、爺っつぁんは3週間目からホメオパシーの医師の指示で、その訓練はしていた。

自転車は安全に乗ってこそ楽しさも倍増する。しかし、事故は何処で、どのようにして起こるか分からない。全ては自己責任なのだ。だから、あらゆる可能性を考えて、無事故を心がけよう。また、自転車に乗っている人で、帽子だけをかぶっている人や手袋をしていない人を良く見かける。もし爺っつぁんが、ヘルメットをかぶっていなければ、今頃は、これを掛けなかったかもしれない。また、手袋も傷を小さくしてくれていた。だから言いたい。

ヘルメットと手袋はは必需品だ!!と。

長くなったが、ついでにホメオパシーのことに触れておこう。事故直後、家内がドイツのホメオパシーの医師に電話をしていた。ドイツはまだ早朝なので、留守電に入れていた。その日の3時ごろドイツから電話で指示があった。ホメオパシーでは薬と言わずにレメディーと言うのがある。その中の6種類を2-30分毎に飲まねばならない。一つは家内と爺っつぁんが飲む、精神安定に寄与するレメディー。他には、病院へ行っているので、もし近代医学の薬を飲んだり塗ったりしていれば、それを身体に影響させないレメディー。痛みを和らげ、カルシュームを造り、骨折箇所の癒着を早めるレメディー等々。事故後3日間は、忙しいほど飲まねばならなかったが、4日目からは、一日3回、3種類のレメディーに減った。そして3週間目から、硬いものを食べる訓練の開始を指示されたのでそれに従った。近代医学では、痛み止めと抗生物質だけで事故後の手段はないが、ホメオパシーではそれまでも準備されている。結果、事故後1ヶ月一寸の療養で、自転車を再開した。再開前に事故車を全部ばらして調べたが、全く異常個所はなく、サーリー・ロングホールトラッカーの強さを再認識した。さぁ、また楽しい自転車でのポタリングが始まる。
2007年07月08日(日)  No.113 (趣味::自転車ツーリング)

爺っつぁんのドキュメンタリーいよいよ‥‥。

映画・KAMATAKIがどのようにして撮影されたかに付いては、このブログでもお読みいただいたことでしょう。初めてクロード・ガニオン監督が、爺っつぁんの陶房に来た翌年早々から、映画・KAMATAKIの準備と共に、爺っつぁんのドキュメンタリーの撮影が始まった。そして全国各地を、監督に同行し、その取材は海外にまで及んだ。

2003年12月、アメリカペンシルバニアにある爺っつぁんの穴窯で、築窯10周年記念窯焚きをする、と言うので、クロード・ガニオン監督と、宮平貴子助監督、プロデューサーのユリさんと共に、ブルームスバーグの爺っつぁんの窯場へ急いだ。窯に火を入れるとき、アメリカ各地からも陶工が手伝いに来ていた、その模様は、地元のテレビ局の取材もあり、同時に爺っつぁんのドキュメンタリーの撮影も進行していた。アメリカの窯は、爺っつぁんが信楽で焼いているのより2日間ほど少ない。だから8日間の窯焚きだった。

窯焚きが終わり、窯を冷ましている間、爺っつぁん、カール・ビーマー、ガニオン監督、宮平さんの4人は、ミネアポリス美術館で昼頃に落ち合った。ミネアポリス美術館には爺っつぁんの作品が展示されていて、アジア日本館の責任者とのインタビューが撮影された。夕刻、近くに住むリチャード・ブレズハン氏が、我々を迎えに来てくれ、その夜は大きな教会のゲストルームに宿泊させてもらった。この写真はブレズナハンさんの陶房だ。翌日、監督は自動車でペンシルベニアに向かって走り、カールと爺っつぁんは、飛行機でペンシルベニアのカールの家まで戻った。
監督と助監督は、途中、インディアナのディック・レーマンの家に立ち寄り、ドキュメンタリー用の撮影をし、そこで一泊。翌日、カールの家に戻ってきた。その翌日が窯開きだ。

2年前の秋、ニューヨークのメトロポリタン美術館のサポーターのグループが爺っつぁんの窯場に来ていて、その折も、ガニオン監督が撮影されていた。そのグループの一員だった方も窯開きにニューヨークから駆けつけてくれ、窯開きは盛大に行われた。ガニオン監督も懐かしそうにその方と話し合っていた。
このドキュメンタリーの撮影が終わったのは、昨年の4月。総撮影時間は200時間を超えた、と言う。

そのドキュメンタリーが、ようやく完成しようとしている。完成は今月の予定。このDVDは、日本語、英語、フランス語を選択できるようになっているらしい。近々、爺っつぁんのホームページ上に「ギャラリー向山」を開設し、そこでこのDVDの販売も考えている。出来るだけ多くの人に見ていただくようお願いします。

爺っつぁんのドキュメンタリーのチラシも出来てきているので、ここに紹介します。

『一時は志した法曹界への道を捨て、自然釉に魅せられ無一文から陶芸界の先駆者に這い上がった炎の芸術家、神崎紫峰。
陶芸家として成功するためには「徒弟制度」が欠かせない世界で、神崎紫峰は、正式な師を持つことなく、自力で作陶の道に立ち向かった。そして多くの陶芸家が自分の「秘伝」として公開を憚る風潮の中で、神崎紫峰は自分の習得した全てをさらけ出し、陶芸を目指すものが、その延長線上にそれぞれ自分の道を探し出すための道筋を作った。
「炎の声」は、伝統技法を極限まで追求して止まない信楽の陶芸家、神崎紫峰のドキュメンタリーである。そして想像力豊かに生き、学び、世界の人々と和をもって共生する、並外れた一人の人間の物語である。
アメリカペンシルベニアにおいて、芸術家であり教授であるカール・ビーマー氏と穴窯を共製したことをきっかけに、神崎紫峰はさらにその知識と哲学を、世界に広げ、よりよい深い道を追求していく努力を日々惜しまず続けている。』(炎の声チラシより)
2007年07月10日(火)  No.115 (映画::KAMATAKI(窯焚))

65歳、四国遍路自転車の旅(準備編)

今年の4月、ふと思い出したことがあった。それは、壊疽に罹り、全快するまでおよそ1年半を要した。そして、その療養中にも様々なことを感じたが、完全に治ったのは2006年5月だった。詳細はこのブログの 2006年05月23日(火) No.53 (医者嫌いが病に::壊疽) をご覧頂きたい。
我々は健康な時には、自分の現状に対して無関心である。しかし一度、病に臥すと、その病のことを考え、ただ良くなることを願う。痛みがあれば、その痛みが和らぐことを願い、快癒を願う。そして、健康だった頃のことを思い出す。この時にはまだ、健康な時の幸せを少ししか感じていない。
爺っつぁんは壊疽の痛みに耐え、その全てから開放されたのは前にも言った2006年の5月だった。それまでの間、爺っつぁんは布団を全身に掛けて寝たことはなかった。壊疽は両足の指だったので、指先に布団を掛けることが出来なかったのだ。困ったのは冬だった。足が冷えてくるから布団を掛けたいが掛けられない。それで、段ボール箱を足元に置き、その上から布団を掛け、足は段ボール箱の中に入れて、布団が直接足に掛からないようにして寝たこともあった。しかし、寝たと思えば、痛みに目を開いた。足を動かした時に箱に当たったり、温度が上がって痛みが増したりと‥‥。痛みの一番少ない気温は23度以上27度以下なのだ。

幸いにも全快し、多くの方から、また、専門医まで、奇跡の回復、と驚かれた。その夜、爺っつぁんは1年半振りに布団を全身に掛けた。
何と言う暖かさ!
この心地よさ!!
寝る、とはこういうことなのか!!
昨日までの痛みもない、この平安。
壊疽に罹らなければ、この喜びは感じられない。

それを感じ、自分の身の回りを見直してみた。一つ一つの全てが、つまり、今まで当たり前、と思っていたことに、これほどの喜びがあるのか!当たり前のことは当たり前でない。奇跡に近いことであり、不可思議そのものなんだ。1年半振りに布団を掛けて寝た時、独り布団の中で涙した。

今年の4月その事を思い出したのだ。

その後爺っつぁんは、当たり前のことを当たり前、と感じるようになっていた。これでは駄目だ。今一度、当たり前のことが当たり前でないことを実感したい。そう思った時、四国遍路が頭に浮かんだ。
「四国遍路に行こう! 四国八十八カ所だけではなく、できる限りの番外霊場や奥の院等々を回りたい。だからあえて四国遍路と言いたい。」
そのように思い、今まで多くの本やビデオで、爺っつぁんにも行けるかを調べてきた。調べれば調べるほど行きたくなってくる。いつ行けるかは別にして、今その準備は着々と進んでいる。

爺っつぁんは今3台の自転車に乗っているが、四国遍路1400キロ以上となれば、サーりーのロングホールトラッカーが最適だろう。先日の事故でもびくともしない頑強さなのだから。その前に、先ず身体を作らねばならない。そして、自転車で、八十八カ所以外にも回るとなると、野宿も覚悟せねばならない。それで、テントを入手した。他にもさまざまな必需品があるがそれはまた別項に譲る。自転車に長時間に乗らねばならないので、ハンドルを変えよう! そう思って、ハーフドロップハンドル、(ムスタッシェハンドル)を上向きに付けてみた。これで乗ってみると中々良い。、そしてフロントキャリヤも取り付けた。このフロントキャリヤにはサイドバックも取り付けられる。そして、フロントライトは明るいものを選んだ。もち論リヤキャリヤも取り付け、そこに大きなバックライトをつけた。夜間走行も考えねばならないから。

今日はフロントバックが届いた。他に雨具も届いた。フロントバックを持ってみると重い。重さを診ると2キロ近くある。これに自炊用具、着替え、様々な用品、修理用工具、テント、寝袋等を入れるとどの程度の重さになるのか。それ相応の重さにして、遍路に出る前に、練習と身体作りをせねばならない。その自信が出来れば、直ぐにも四国遍路にで変える予定。だから、今の所は今年中に行けるのか来年になるのかは、まだ決めかねている。爺っつぁんのような歳になると、無理は出来ないから‥‥。
2007年07月12日(木)  No.117 (趣味::自転車ツーリング)

鷲峰山・金胎寺に登頂。

20日朝、7時過ぎ、いつものように自転車でサイクリングに。行き先は国道307号線の裏白峠うを越えて、鷲峰山(ジュウブサン/セン 標高約680m)・金胎寺(コンタイジ)、そこから和束の原山に出て、湯船森林公園経由、信楽へ。およそ40キロ一寸の行程。爺っつぁんのスタジオからの標高差約350m。
ブログを見ると、鷲峰山に自転車で登山をしている人は多いようだ。その殆どが、ゆるい上り坂とか、ノンストップで登った、とか‥‥。しかし、爺っつぁんにそんなことが出来るはずがない。それでなくとも、寄り道、寄り道の自転車旅、いわゆるポタリング好みの爺っつぁんだから、計画ものんびりそのもだ。だから、11時半頃、金胎寺に到着し、金胎寺をゆっくり見学、その後どこかで昼食をとり、下山し、信楽へ、と思っていた。結果は、予定通りだった。307号線の裏白トンネルを抜け、およそ1キロで鷲峰山入り口の標識が見えてくる。そこからが登り坂の始まりだ。暫く行くと毅池峠に到着する。そこで道路は二手に分かれていて、鷲峰山は右の細い道路を進むことになる。およそ8キロメートルの上り坂。ハァーハァーゼェーゼェーの始まりだ。
爺っつぁんの自転車には、PolarのCS200cdが付いている。これには、心拍計、速度計、ケイデンス(1分間に回るペダルの回転数を表示)、走行距離計、等々が付いている)。それで心拍数の管理をしながら走っているのだ。爺っつぁんの年齢を入力すると、限界心拍数が自動的に設定される。その数値は133だ。133を超えると、ピ^ピーと警告音が鳴る。これが鳴り出すと、爺っつぁんは、自転車から降り、心拍数が110程度になるまで休憩する。だから、若い人のようには走れない。と、言うのが爺っつぁんに都合の良い言い訳だ(笑)。くねくねと曲がりくねった長い上り坂。勿論何度も休んでいる。
ようやく頂上近くに着いた。そこには電波塔が林立していた。その辺りに一等三角点があると聞いていたので、近くまで行ったが、フェンスで仕切られていて中に入れなかった。
そこからおよそ1キロほどは下りになる。自転車ならではの爽快感だ。風を味わうことが出来るのだ。

この山の中を走っているのは爺っつぁんだけか、と思うほどに、自動車も何も通らない。だから、休憩の時も、自転車を止め、爺っつぁんは舗装路の上に大の字になることも出来たほどだ。
気持ち良く下っていくと、右「郷の口」、左「鷲峰山・金胎寺」、と言う標識に突き当たるので、左の道路を進むと、直ぐに、右に行く広い道路と左斜めの小道に分かれている。そこを左に上っていく。暫く行くと急坂になったので、自転車をそこに置き、そこからは徒歩。およそ3−400メートルで山門に到着した。

山門を入ると、正面に本堂らしき建物が見える。その右に庫裏と休憩所のようなものがある。住職に聞いてみたいことがあったが、庫裏の入り口に古びた看板が掛かっていて、そこには、「ただ今買い物中です。連絡は、電話*******」と書かれていた。
この建物の正面を通り過ぎ、奥に行くと「行場めぐり」が出来るらしい。ここは修験者の道場なので、相当険しい山道らしい。そして、この建物の奥50メートルほどの所に展望台があり、その景色も素晴らしかった。
玄関口に戻って、この建物は本堂ではない、と気付いた。その建物は「接待所」というらしい。そこで、本堂は何処にあるのか、と探し回ったが、見当たらない。そんなはずはない、と山門の方を見た。その山門の向こう側に、爺っつぁんが先ほど来た道とは違う細い地道の坂があった。そこには道案内があって、本道、多宝塔と、書かれていた。ふつう、山門を入って本堂や多宝塔、他のお堂があるのに、ここは、山門を入らないで、山門の手前でユーターンをして、本堂へ行くようになっている。何とも不思議なお寺だ。
その道は長くはないが、急坂だ。最後の坂などは引き戻される感じだった。その坂を登りきると、正面に本堂。左側に多宝塔、右側に大師堂、鐘衝堂、役行者堂があった。

時間を見たら1時前になっていた。下山することにした。自転車で和束方面に下り、食事の出来る場所を探していたら、景色の良い場所に出た。爺っつぁんにとっては見慣れた茶園だが、場所が変わるとまた違って見える。自転車を止め、景色を見ていると、その反対側の広場に、水がパイプからこんこんと流れ出ていた。そこで食事をすることにした。コンロを出し、味噌汁を造り、紅茶を入れ、握り飯を頬張った。このような食事は何年ぶりだろう。四国遍路に出れば、日によってはこのような食事をすることもあろう。また、宿が全て満室なら、キャンプも余儀なくされる。だから、今回の荷物の重さは、四国遍路のときに予想される重さにしている。
食事が終わり、のんびりしていると、2時半になっていた。和束までは急坂、と聞いている。細い道を下っていくが、スピードは出せない。25キロほどのゆっくりしたスピードで走る。それでも枯れ草の上にでものれば、スリップして危険だ。また、ブレーキの利きも悪くなっていたので、途中で修理した。殆ど自動車も通らない静かな山道だった。
和束に出て、湯船の茶店で同年輩の婦人とのんびりと話をし、家に帰ったのは5時過ぎになっていた。早朝から夕刻までの一日仕事だった。このコースは気に入ったので、これからの爺っつぁんのポタリングのコースに入れておこう、と思う。

走行データは;
実走行時間 4時間25分
心拍数 最大136  平均 121
心拍限界 133  101
消費カロリー 2129Kc
走行距離 43,1K
平均スピ−ド 9.8Km/H
平均ケイデンス 66回転/分

夜風呂に入ると、足の筋肉はパンパンに張っていた。これが爺っつぁんライダーの実態だ(笑)。
2007年07月21日(土)  No.120 (趣味::自転車ツーリング)

クロード・ガニオン監督最新作、DVD「炎の声」完成

昨日、ZUNOフィルムのプロデューサー・Yuriさんが、クロード・ガニオン監督最新作、DVD「炎の声」神崎紫峰ドキュメンタリーを届けてくださった。すべてが終わった深夜にゆっくり鑑賞! 予想通り、ガニオン監督の編集には凄いものを感じる。どの点かを言うのは差し控えるが、爺っつぁんはご満悦だ。(笑)
この製作過程での苦労談義は、プロデューサーのBlog・Yuri's Blog Salon 桔梗庵の2007年7月21日から7月24日をご覧ください。またコメントなどもお願いします。(スパム防止のためワンクッションを置いてBlogに移動します)
なお、購買ご希望の方はギャラリー向山をクリックしてください。
2007年07月29日(日)  No.122 (映画)

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