暇人・爺っつぁんの茶飲み話

クロード・ガニオン監督からのメッセージ

DVD、The Fire Artist 炎の声 神崎紫峰ドキュメンタリーが完成後、クロード・ガニオン監督からのメッセージが寄せられています。
このメッセージは爺っつぁんのプライベートな英文掲示板に寄せられていたものですが、このDVDの製作者でガニオン監督の奥さんであるユリさんが翻訳して、ユリさんのブログに掲載していただきました。
Yuri's Blog Salon 桔梗庵の2007年8月1日に掲載されています。
爺っつぁんがあれこれ言ううより、直接お読みいただくほうが、その真意が伝わると思いますので、ここに紹介させていただきます。
2007年08月01日(水)  No.125 (映画)

クロード・ガニオンからのメッセージ 2007年 08月 01日

上記タイトルで、「Yuri's Blog Salon 桔梗庵」に掲載された全てのメッセージの転載を許されてますので、ここに掲載させていただきます。コメントも転載しましたが、事後承諾、ということで‥‥。

クロード・ガニオンからのメッセージ 2007年 08月 01日
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神崎紫峰ドキュメンタリー「炎の声」完成を期して、監督ガニオンからのメッセージが届きました。直訳ではありますが、彼の感謝の気持ちと、この作品に対する想いが込められていると思います。

The Fire Artist…

『炎の声』

The Fire Artist is, at long last, completed. It was quite a journey. I often wondered if I would ever see the end of it, if it even made any sense to keep going… But I’m very happy with the result and I hope that you will enjoy the documentary about this “strange man”, Shiho Kanzaki, who became one of my best friends after those many years of shoot.

『炎の声』がようやく完成しました。長い、長い道のりでした。「本当に終わりは来るのだろうか、本当にこのまま突き進んでいいのだろうか」と時折考えたりもしました。しかし今、その成果に私自身、とても満足しております。皆さんが、長年におよぶ撮影を通して私のかけがえのない友となった,「変わった男・神崎紫峰」のドキュメンタリーを楽しんでいただけると幸いです。

There were a lot of happy moments, a few hectic ones and some very sad ones as we lost some dear friends during the course of the shooting… Fortunately, the movie magic will keep them with us for many years to come、. Let’s not forget them… I am very grateful to our lost ones.

この長い道のりの中、楽しいときもあれば、大変なとき、また撮影の最中、愛する友を失う悲しい出来事もありました。しかし幸いなことに、映像の魔法はいつでも彼らを身近に感じさせてくれるでしょう。彼らの存在を胸に留めておきましょう。亡くなった方々へ、心からご冥福をお祈りいたします。

I also have to thank so many people who made all this possible for me. Of course, I begin with Shiho Kanzaki who was there for me anytime I needed him, never refusing anything, open to any suggestion or request. His generosity goes way beyond what can be written here. Kanzaki Sensei and his wonderful wife Keiko were just amazing, in every respect and I hope to keep them as my friends to the end of my days…

それから、このドキュメンタリーの完成を可能にしてくれた、多くの人々に感謝を捧げたいと思います。まず、いつでも、私が必要としたときに必ずそこに存在し、私の提案や要求を拒む事無く、力になってくれた神崎紫峰氏。彼の寛大さは、到底ここに書き表せるものではありません。神崎氏と奥様の卿子さん、この二人の素晴らしさにはただ驚くばかりです。これからも、末永い親交を願っています。

I have to thank all of you, who gracefully accepted to appear in the movie. I will not mention everyone by names, but you know that these words are addressed to you. Each of you, in your own personal way, made all this possible by speaking on camera, by receiving us in your homes, often feeding us, supporting us emotionally and even financially in some cases. Really, this movie could have never been made without all of you who appear in the end credits. Thank you from the bottom of my heart.

そして次に、この映画に協力していただいた全ての人に、感謝します。一人一人の名前には触れませんが、この感謝の言葉をあなた方に差し上げます。あなた方の一人一人が、それぞれの方法で、不可能を可能にしました。カメラの前で話して頂いたり、ご自宅を私達の宿として提供していただいたり、食事を提供していただいたり、精神的な支えになっていただいたり、時には経済的にも支えて頂きました。本当に、この映画は、エンドクレジットに現れるあなた方の、誰が欠けても実現しなかったでしょう。心より感謝申し上げます。

But I couldn’t go without a special mention for Saini San who was extremely helpful in making all this possible for us. He spoke on camera, let us use his personnal collection of work from Shiho Kanzaki and went much further than anyone could imagine in order for us to make this happen. And on top of all this, he makes the best rice crakers in the world!

そして、齋二勇治氏には、この場をかりて特別にお礼を申し上げたいと思います。個人的なコレクションの数々を惜しげも無く我々の撮影のために提供し、インタビューに応じて頂き、また想像を越えるご協力、ご支援を頂き、多大な貢献をしていただきました。そして、素晴らしい事に、世界一の品質を誇る「おかき(高山おかき)」を今もたゆまず作っておられるのです!

This project definitely made me meet a lot of extraordinary people…

このプロジェクトは、私に多くの素晴らしい人たちに巡り会う機会を与えてくれました。

I also want to thank Yano san (who does not appear in the film…) for his very inspiring Shakuhachi albums and his generous collaboration for our film. And please, allow me to give a special thanks to my producers/wife/son, Yuri and Samuel. At times when the finances were extremely low, to say the least, they still allowed me to make my trips everywhere to pursue my dream of making this documentary. They trusted me a hundred percent, even though the revenue possibilities were extremely slim. They struggled really hard in order for me to make this film come true.

画面には登場しませんが、感動的な楽曲と巡り会うきっかけを頂いた矢野司空氏に、彼の傑出した尺八の演奏、そしてこの作品への寛大なご協力に感謝したいと思います。そしてこの場を借りて、私の妻であり、プロデューサーであるユリと、同じくプロデューサーである息子サミュエルに感謝したいと思います。経済的に最悪なとき、このドキュメンタリーの撮影の為に様々な場所で撮影する費用を捻出し、映画を完成させるという私の夢を実現してくれたこと、収入源がこの上なく少なかった時でさえ私を全面的に信頼してくれたことに感謝します。

And I finish with Takako (“You think my slave”… as Uncle Takuma would say in KAMATAKI…) who was with me in this adventure from beginning to the end. She not only shot a good part of the material with me, made several of the interviews, but she was stuck with 200 hours of material. Editing this type of documentary is not like editing a feature film or a TV documentary. She hung in there, not only doing all the physical work, but pushing all my ideas to their limits, improving every suggestion I would make. Trust me, there is a lot of Miyahira Kun in this documentary…

そして始まりから終わりまでこの冒険を共にしたタカコに感謝します。(''私の奴隷だと思うかね?''映画『KAMATAKI』の中で琢磨おじさんがケンにいったように...)
彼女は単にいい映像を共に撮っただけでなく、出演者への質問、200時間にもおよぶ編集作業を乗り越えました。この場合の編集作業は普通の台本のある映画やテレビの編集とはかなり違ったもので、彼女は技術的なサポートのみならず、私の提案に耳を傾けその全てを極限まで押し広げました。このドキュメンタリーの中では宮平君の映像的感性が光を放っています。

I will conclude by saying that when I first met Shiho Kanzaki, I wasn’t too sure of the kind of man I had in front of me. When I decided to make the documentary, I chose not to have a personal opinion. I chose to go out there and watch, and discover. All of you made me discover my subject. At the start, I had absolutely no idea where this would lead me and what kind of man would emerge in the end. Fortunately for all of us, you all made us discover a wonderfully stimulating man, someone worth knowing.

最後に、神崎氏に初めて会ったときのことを記します。初めて会ったとき、私は目の前にいる一人の男がどんな人間なのか、正直、確信がありませんでした。ドキュメンタリーを撮ると決心したとき、私は「個人的な考え」で彼を判断する方法ではなく、この一人の人間と行動を共にし、観察し、発見していく道を選びました。
関わってくれた方々全員が、「彼」を知る手がかりとなりました。初めは、どのような形になるのか、どのような人物像が浮かび上がるのか想像もつきませんでした。幸運にも、我々全員にとって、素晴らしく刺激的なある一人の男、知らずにいるにはもったいない人間-神崎紫峰-を発見したのです。

愛をこめて!
Love everyone!

クロード・ガニオン
Claude

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Commented by hige-t at 2007-08-01 13:56

心の籠もったメッセージですね。
私共のメンバーといつでもまた飲む機会は作りますよ(^_-)-☆
……とお伝え下さい・・!!(^Q^)/^

----------------------------------------------------------------- Commented by 爺っつぁん紫峰 at 2007-08-01 16:49 x

身に余る言葉をいただき、ストレンジ紫峰、身を屈めて小さくなっています。
素晴らしいドキュメンタリー、ありがとうございました。
多くの方が3度、4度と鑑賞し、その都度このドキュメンタリーの素晴らしさを発見しておられるようです。
爺っつぁん紫峰も今日、ゲストと2度見てますので、合計8回見たことになります。
その都度新しい発見があり、クロードさん、ユリさん、サミュエルさん、貴子さんの格闘の跡がしのばれます。感謝!!

きょうの驚きは、爺っつぁん紫峰がロクロで最後の水挽きをしている場面で、ゆっくりとなっていくロクロの呼吸と尺八の呼吸、最後の無音の音と水挽きの余韻が一つになっているのに驚きました。

何につけても、素晴らしいドキュメンタリー、ありがとうございました。

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Commented by 髭 at 2007-08-02 06:34 x

DVDも何度も拝見していますが……今朝はこのメッセージを再度拝読しました(^◇^;)
『知らずにいるにはもったいない人間-神崎紫峰』……実に言い得て妙ですね(^_-)-☆
男を称賛するにこれ以上の言葉はありません。

昨日某氏が電話をしてきて……ドキュメントの中で奥さんを見て涙が出た……って。
敢えて採用されたカットにあらためて感謝し、死者の追悼には余りにも有り難い言葉だと思いました。
(其の男が決して情緒的なことに翻弄されたり、情緒的な言い回しをする男ではなかっただけに尚更でした)。
個人的な報告ですが……関連事件?として(^◇^;)
2007年08月02日(木)  No.126 (映画)

ドキュメンタリーの完成!の経緯。

クロード・ガニオン監督の作品、映画「KAMATAKI窯焚」及び「DVD、The Fire Artist 神崎紫峰ドキュメンタリー」のプロデューサーのブログ「Yuri's Blog Salon 桔梗庵」に掲載されていたメッセージをここに転載させていただきます。
ここに転載する第一の理由は、5部に分割されているメッセージを、時系列に読む方が、読む人にとっては読みやすいこと、がその理由です。ですから、長文になり、写真もありませんので、興味のある方にお読みいただければ嬉しく思います。

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ドキュメンタリーの完成! 2007年 07月 21日

DVD製作/窯焚き狂詩曲 <その一>
「陶芸家神崎紫峰」のドキュメンタリーがついに出来上がった。

思えばもう随分前になる。2002年の末、次回作の映画のリサーチで滋賀県の信楽へ行き、神崎紫峰先生に出会ったのが始まりだった。長い間撮りたかったテーマ「美と醜」についての物語である、映画「KAMATAKI」の主人公の叔父の職業を陶芸家と設定、陶芸について調べだしたのはその年の夏頃。ありとあらゆる陶芸関係の本を読み、インターネットで検索し、陶芸家のサイトを訪れ、たどり着いたのが信楽焼の神崎氏だった。


脚本家であり監督である相棒は、何かをするとき、知りたいとき、何十冊と本を読む、ビデオを見る、ありとあらゆる方法で、本物を見つける。決して安易な方法で物事を判断したり、始めたりはしない。日本へ来る前は、益子、常滑、備前、有田、唐津、沖縄迄日本全国、足を伸ばしてリサーチをするつもりだった。前回の作品で沖縄がロケだったこともあり、随分気にいっていた相棒は、沖縄の壺屋焼きをかなり全面に検討していたが、私の母が滋賀県在住でもあり、また日本での思い出の場所、我々が知り合い、10年間住んでいた京都時代、近いのに行く機会がなかった信楽から始めることにした。
あらかじめメールを送っておいた神崎氏に電話、快く迎えて下さる事になり、国道沿いに延々と狸の並ぶ信楽の町へと一路車を走らせた。神崎氏と相棒は初めての出会いで意気投合した様子で、話しはつきず、12月に行う窯焚きに参加してはどうかとのお誘いを受ける。これと思ったら一直線の彼は即座に決定。私もすぐに乗ってしまう質なので、信楽駅前に宿舎も見つけ、車を調達(母の車を強制強奪)、彼の毎日の窯場通いが始まった。

2002年12月真冬の窯焚きが始まる。神崎氏の窯焚きは10日間、24時間態勢で赤松を焚く。相棒もワンシフトをまかされ、5?6時間薪を焼べ続ける。今から思えば飛び入りの新米に、よくぞ窯焚きを任せてもらえたものだと思う。真冬の信楽は寒い。滋賀県で一番気温が低いと聞く。そんな中、6時間のシフトが終わっても、他の人の窯焚きを見続けて、彼流の徹底したリサーチが始まる。窯に向かっている方の体は暖かいが、反対側は氷の様に冷たくなるようで、魚を焼く様にクルクル回り続けなければたまったものではないらしい。
10日間の不眠不休の窯焚きが終わり、年末を挟んで翌年5日に窯開けになる。この日に私もカナダから再び訪れ、すばらしい作品が出来上がっているのをこの目で見る事が出来た。
この窯焚きから、すこしずつビデオカメラで記録を始める。ソニーのミニDVカメラは1300度に上がる高温に、プラスティックの部分が溶けてしまった.。


2007年 07月 22日
DVD製作/窯焚き狂詩曲 そのニ

2003年に入り、長編劇映画「KAMATAKI』の準備に入る。
12月の窯焚き後一旦カナダに帰り、本格的にシナリオの執筆にかかる。窯焚きの実体験をもとに、出来上がったのが確か2月11日、私の誕生日だった。映画『ミザリー』を真似してドンペリで乾杯がシナリオ完了のセレモニーだ。まだまだこれから改稿が重なるが、いつもこの初稿に言いたい事の魂は詰まっている。それをああだこうだと言いすぎるとかえって芯を失い、ふやけたものになる。しかし、映画はシナリオが完成しなければ資金は集まらないし、キャストも決まらない。(キャストが決まらなければ資金も集まらない)監督の名前だけで資金が集まった時代は終わった。年々ハリウッド型エンターテイメントが主流になってきている中、地味な作品は出来てみなければ分らないと言われる、でも資金がなければ作れない。この辺が、ジレンマのおびただしい時期だろう。

相棒は処女作「KEIKO」で新人を起用、即興の演技で日本の映画界に新風を吹かせた人。日本映画監督協会から新人賞をもらう等、期待の映画人としてのスタートを切った。この映画でも原点に返り、なるべく自然な演技で、人間の生態を切り取った映像を映し出したい、と考えている。すなわち、脚本にすべてを書き込まない。脚本はただの道しるべ、中身は俳優との共同作業で埋めて行く。脚本が固まっていないのは、プロデューサーにとって一番困る状態である。それでもいろいろなところへ話しを持ちかけ、断られ、うまく行きかけては、頓挫し、そして裏切られ、、と月日はあっと言う間に過ぎて行く。春から本格的に信楽に居を構え、準備に忙しい毎日だったが、夏になって主人公の叔父役に藤達也さんが興味を示してくれたところで、結局撮影は翌年になることになり、撮影のために予定してもらっていた窯焚きが中に浮く事になった。しかし、神崎氏の好意でそのまま窯焚きは決行となり、窯に火が入る。藤さんも練習のために窯焚きを見学に来るなど、決して無駄にはならず、逆にきちっとした準備が出来る事になった。その前後にも広島の生口島へ行ったり、丹波へ「ぐいのみ会」に参加撮影したり、岐阜の松山先生、長野、群馬高崎市、、、とドキュメンタリーの撮影は続く。窯焚きには丁度カナダ・ニューブランズウィックから、陶芸家リー・クラークが見習い助手として参加することになり、彼の日常もカメラは追った。この部分もこの後作品として完成させる予定である。冬の間一旦カナダへ帰った我々は撮り終えたテープのロッギングを開始。この時でもう既に100時間以上のテープがあったろうか?

ドキュメンタリーの撮影はカメラがあればなんとか出来るようなものの、監督とカメラマンでの念入りな撮影、そして編集へと移行する作業は早いようで手間がかかる。そして、劇映画と違って脚本があるわけではなく、撮り終わった材料からドラマを作って行く、編集人の才能がものを言うのである。オフィスに据えたマックのG5でファイナルカットプロを駆使しての作業が始まった。しかしその間も、USへの撮影が数回、カナダNBへの撮影、、、2004年になり本格的に動き始めた「KAMATAKI」撮影で一旦中断、2005年に映画完成迄は殆どストップ状態。監督も、編集も同じ人間がしているので一度に二つの編集は出来ない。ドキュメンタリーの編集が気になりながらも、やっと撮る事が出来た映画「KAMATAKI」の完成を優先することになる。


DVD製作/窯焚き狂詩曲 その三

映画「KAMATAKI』とドキュメンタリー
映画の事はまた機会を見て記録を残したい。この作品に関してはプロデューサーとして、まだ傷が癒えていないとも言える。唯一言えるのは、これほど大変な製作は初めてだった事。今迄、多数映画を製作し、難しいフランスとの合作も経験し、連邦政府や州政府との交渉、何億と言う資金繰りから製作体制迄、プロとしてのステップを十分知り尽くしていたはずが、今回は勝手が違った。

今回はかなり多くの人に迷惑をかけた製作だった。クランクアップから2年を過ぎた今もまだ未解決だし、特に神崎氏には甘えっぱなしの撮影だった。しかし同時に、多くの素晴らしい出会いがあり、そしてその人達に支えられての撮影でもあった。資金不足に目をつぶり見切り発車したことを後悔するべきか、それとも発車した決断を英断とするべきか、、、。とにかくあの時に無謀な決断をしていなければ、この作品は出来上がっていなかったのは確かだし、ドキュメンタリーも完成したかどうか分らない。スタートがどうであっても、結果作品が残るのとないのとでは全く意味が違ってくる。普段はプロダクションの会計係だけで3?4人が働き、助監督にも少なくとも2人のアシスタントがつく、資金も十分に見積もり通りに集めてのクランクインとなる。プロデューサはそれ迄が仕事で、クランクイン後はロケ地を何回か訪れ、デイリーラッシュ(毎日撮影した分の試写)を見て意見を言うだけ。プロダクションマネージャーが現場をコントロールし、弁当係からドライバー迄がプロ中のプロ、何の心配もない。今回、資金不足を理解してもらっていたとは言え、映画製作が初めてのスタッフも多く、必要以上のストレスを与え大変だったと思う。

9月から11月にかけて撮影し、クランクアップしたあと、キャストもスタッフも皆それぞれ帰って行って、空っぽになった宿舎に残った山のようなゴミを監督と二人で信楽の山深いゴミ処理場へ持って行き、雨の降る中、瓶の色によって違う場所に投げ入れる作業を黙々とした。というか色分けしなければ管理人に叱られた。しかし、なぜか楽しかった。映画作りの原点にかえったようで、雨の中、二人でひたすら瓶を投げていた。


DVD製作/窯焚き狂詩曲 その四

2004年11月、映画のクランクアップのあとカナダへ引き上げる。エネルギーは使い果たし、資金も底をつき、借金だけが残った状態で、一体これからどうなるのか不安の毎日だった。ひたすら映画の仕上げに全力を注ぎ、8月のモントリオール映画祭にオフィシャルコンペティション参加が決まる。

無理を言って来てもらった藤さんの存在感も功を発して、最優秀監督賞、国際批評家賞、大衆賞など、、、5部門での受賞となる。「KAMATAKI」プレミア上映の日、土砂降りだった雨が、会場へ向かうその時にピッタリと止み、会場の向こう、夕日が輝いて見えだした。藤さんの『窯の神様が応援してくれましたね、、。』との言葉が印象深かった。映画際での成功はどんどん他の映画際へ広がり、決して収入にはつながらないが、名誉だけはどんどんついて来る。世界中から参加のオファーがあり、嬉しい悲鳴。

ベルリン、アルジェンチン、フランス、バンコック、、、、と今年1月のカリフォルニアまで、1年半の映画祭巡業が始まった。余談だがベルリンで日本料理店「大都会」に入ったら、巨大な狸が迎えてくれた。とても良い予感がした。その日は私の誕生日でもあり、2003年の私の誕生日に脚本が仕上がってから3年、作品を持って世界三大映画祭に参加出来るなんてて夢のようだ。その上審査員特別賞までもらった。感謝。

しかしその間、ドキュメンタリーの編集は始まったり、止まったり、また撮影も続き、テープはどんどん増えるばかり。最終的にもう一度06年に信楽の陶房で作品の撮影をして合計200時間以上のマテリアル、出会いから4年半の歳月を要してやっと編集も終わりを迎えた。
編集が終わったら完成?いや、まだまだ大変な作業が残っている。まづ、オフラインで編集していたものをオンラインで編集、イメージに合わせサウンドの編集、特にドキュメンタリーの場合、ノイズが一杯入っているのでそれを取るだけでも大変な作業である。また、不足している音も入れ込んだり、音の高低をバランスよくしたり、また音楽を入れて、その調整もある。最終的にミックスをする。微妙な違いでそのシーンのムードが違って来る事で、ファイナルミックスの試写では沢山のクレームを出し、調整してもらう。スタジオの担当者は、劇場映画並みのミックス作業だと驚いていた。我々のポリシーはドキュメンタリーだから、短編だからと手を抜かない。一つ一つが魂の通った作品になるよう、10年20年後に見ても納得いくものを作ることだ。映像の方はオンライン編集後、カラーバランスをする。蛍光灯の下で撮ったものと、屋外で撮ったものの色の差は大きい。それが気にならない程度に調整してもらう。それでも、青過ぎたり、赤過ぎたり、試写の日には何カ所かの訂正が入る。タイトルを入れ、エンディングクレジットロールを入れ、この辺でいわゆるポストプロ、仕上げの作業は一ヶ月を費やして終わり、一応商品としてのマスターテープが出来る。さて、これからが今回の我々の狂詩曲が始まる。DVD マスターの作業である。


神崎紫峰ドキュメンタリーフルム <その五>

マスターテープが上がり、これからDVDの製作が始まる。

世界に向けて広めようと、日本語、英語、フランス語の字幕を付けようと考える。その上、難聴者向けに総字幕版も作る事にする。すなわち、日本語版には、部分的に英語の台詞に日本語字幕がついたものと、日本語にも字幕がついたものがあることになる。フランス語は全編字幕だから、日英仏で、5種類の字幕版が必要になる。その上にボーナスとして、映画「KAMATAKI」の予告編、神崎氏の紹介、監督の紹介と御知らせ(この後に完成させるーKanzaki Wayーと言うハウツーものについて)、をつける。これらもすべて3カ国語。特に字幕の修正は大変だった。人に直訳させると、時には全く意味が通じないときがあり、陶芸の専門用語もあり、それをフランス語ではどういうのか、、、など、点検するたびにミスが見つかり、この作業だけで数週間があっという間に過ぎて行った。そして、DVDを作るにはメニュー作りが心臓部分だ。メイン頁から、各ページに飛ぶ、そのデザインレイアウト、をするのはマックのDVDスタジオプロを駆使するTKO嬢。ものすごい集中力が必要なので、彼女の目と肩は数週間、固まっていた。メニューが出来ると同時に今度はオーサリングと言う作業がある。出来上がった各ページをつなげて行く作業だ、。DVDのリモコンで、いろんな頁に飛んだり、戻ったり、ストップしたり、また再生したり、、、など、間違いのないようにプログラミングする作業だ。これらの作業を甘く見ていた。どんなに急いでもフィジカルにかかる時間は短縮できない。TKO嬢は数週間、週末なし、殆ど24時間態勢での作業になった。ポストプロの時間のずれもあり、我々の作業も遅れ気味、神崎氏の窯祭りに間にあわせようとすると、だんだんリミットが近づいてくる。

マスターDVDを作った後はどうなるかと言うと、FEDEXで日本に送りプレス専門会社にプレス、ジャケット印刷、シュリンク包装と一環しての作業をオーダーする。この会社を選ぶだけでまた2週間が必要だった。始めはDLTと言う磁気テープを納品する必要ありという事で、こちらのラボで問い合わせると、DLTはこの数年使っていない、どちらかと言うとデーターをFTPサーバー経由で送るのが普通になっているらしい。それに特にマックで作業していると何かと日本との仕事はハンディーになる。日本は機械がウインドウズよりなのだ。危うく、DVDのプレスは日本では無理かと思われた時、大阪の会社を見つけなんとか滑り込みセーフでオーダーする事が出来た。どの日本の会社も韓国、シンガポール等に下請けに出すらしい。品質管理は?、、と心配したところ、この会社はシンガポールの工場を子会社として、自社責任で品質管理をしているらしい。社長のポリシーもホームページで読み、気に入った。17日にフェデックスで発送した後、フタッフ全員ボーッとしてふぬけの様になった。いまごろはプレス機でどんどんプレスされているのだろうか?みなで乾杯したビールはことのほか美味しかった。

さて、皆さんに長い間待ってもらったドキュメンタリー、気に入ってもらえるだろうか?
未だに完成したとは信じがたい、現物を見る迄は、、、。


昨年のカナダ大使館での試写会後、映画「KAMATAKI」の配給も決まった。今年は忙しいけれど、良い年になりそうです。映画の話題はまたお届けします。
ーおわりー
2007年08月03日(金)  No.134 (映画)

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